2015年07月23日

供養の期間

「あなたの最後の親孝行
一緒に考えてみませんか。」


これはフューネのテレビCMのナレーションですが、お葬式は

最後の親孝行であることの啓蒙活動は今後も続けていきます。

本来親孝行は親が生きている間にしなくてはならないものなのですが、

親が亡くなって初めて後悔する方がほとんどなのです。

その為、葬儀が終わり、お棺の蓋を開けて最後のお別れをする時には

大抵の場合、「懺悔」「感謝」の言葉に埋め尽くされます。

子にとって親の存在は当たり前であり、失って初めてその大切さに

気づくものです。幸い私の両親はまだ健在ですので、私自身も

本当の意味で親の有難さを理解していないものだと思うのです。

生前に親孝行が出来なかった後悔はお葬式をすることで、後悔と

いう気持ちを薄れさせることができます。

そして、本当の意味での親孝行は死後の供養をするということ

なのかもしれません。

年忌法要には一周忌・三回忌・七回忌 ・十三回忌 ・十七回忌

・二十三回忌二十五回忌 ・二十七回忌 ・三十三回忌
とあります。

今では3回忌くらいまでしか親戚を呼んで法要をすることをしない家が

増えてきましたが、年忌法要をいつまでやるのかという質問に今でも

一番多い答えが33回忌なのです。もちろん年忌法要は33回忌で

終わりではなくて50回忌・100回忌とあるのですが、なぜ33回忌で

多く方が一定の区切りをつけるのかという疑問が湧いてきます。

諸説あるのですが、33回忌というのは

子が亡くなるタイミングだからです。

実際に親の50回忌を子が施主で行うケースは極めて稀ですし、

100回忌に至っては孫・ひ孫の代でも怪しいものです。

つまり、子は生きている間の期間がおよそ、親の死から33年くらい

であり、親の供養は子は生きている間に行う親孝行なのです。



近年、お葬式に簡素化に伴い年忌法要までもが、簡素化の傾向です。

法要の大小は関係ありませんが、自身の元気な内はお墓参りや

朝晩の仏壇のお参りなど、自分自身のペースで供養することが、

一番の親孝行なのかもしれません。










  

2015年06月05日

歯型

人が亡くなるのはいわゆる畳の上だけでないのは皆様もご理解は

頂けているのではないかと思います。

事件や事故、自殺そして孤独死。。。

何とも言えない亡くなり方であり多くの場合、「悲しみ」の深い

お葬式になることは必定です。

このような場合まず100%警察による検死の対象になり、身元の確認が

行われます。親族がお亡くなりになられた方のお顔を見て身元を判別を

出来る場合は良いのですが、かなりの確率で顔を見て判別できない

ケースに遭遇します。お顔が解らないばかりか、男女の区別さえも

出来ないケースは意外と多いのです。

焼死や死後一週間以上経って腐敗している状態など私もこれまでに

なんとも言えない状態のご遺体に遭遇してきました。




顔で判別の出来ないケースでまず最初に用いる本人確認の方法は

歯の治療痕からの判別です。

歯は基本的にお亡くなりになられても変わることがなく、また歯科に

通院していれば、記録が残っているものです。

結果的に多くの歯科医師が検死の現場で本人の確認作業に携わって

いるのです。

知り合いの歯科医師に聞いてみると治療の痕は確実に記録があり、

それと照合すると簡単にその人か解るものなのですが、自分が直した

治療痕も多いのだとか。結局のところ、生前に複数の歯科医を変える

という浮気する患者さんが多いだそうです。

さらに、歯のカタチはレントゲンを撮っておけば、不慮の死に

遭遇してもご遺体の歯型をレントゲンで撮影し生前のものと照合すると

ぴったりと一致をするというのです。

それでも、歯型では本人確認が出来ないケースがあります。

そのような場合は現在はDNA鑑定という方法が採用できる

ようになりました。ただDNA鑑定で分かるには親族のDNAが

必要です。




お亡くなりになられた方は誰か?

一刻でも早く身元を判明し、遺族の元に返してあげたいと日本中の

警察官が一所懸命やってくれている大変な仕事なのです。


  

Posted by フューネ三浦 at 08:22 │役立つ雑でない雑学

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2015年05月24日

ありがとうの反対は

「ありがとう」という言葉は魔法の言葉です。

「ありがとう」と言われて怒る人はいないし、「ありがとう」と

いわれる度に優しい気持ちになれるものです。

「ありがとう」という気持ちは例え、言葉が通じなくても通じるもの

ですし、「ありがとう」という言葉にどれだけ多くの人が勇気づけ

られるのかは私が説明をする必要はないでしょう。

悲しい葬儀のお別れの言葉も「ありがとう」という言葉が最適です。

「さようなら」「いってらっしゃい」

別れには適切な言葉ですが、もうこの世では会えないというお別れで

あればこそ、お亡くなりの方に感謝の気持ちが素直に表れた

「ありがとう」が究極のお別れの言葉になるのです。



「ありがとう」を漢字で書くと、「有り難う」となります。これは、

「有」ることが「難しい」わけで、「めったにない」という

意味になのです。

「ありがとう」の語源は「めったにない」ならば、反対を意味する

言葉は何になるのでしょうか。

それは「あたりまえ」なのです。

「あたりまえ」は「そこにあることが当然」という意味です。

私たちの身のまわりにある水や空気などあることがあたりまえの

物は普段はあることに何も疑念を感じません。

しかし無くなるとそれはとても大事だったことに誰もが気づき、

そしてあたりまえの反対になった時に「ありがとう」という

感謝の気持ちが表れるのです。

もしかしてあたりまえの「平和」も無くならなければ、絶対に

感謝なんかしないですよね。

あたりまえの反対が感謝であること。「ありがとう」という

言葉は「ありがとう」の反対にある「あたりまえ」を気づかせて

くれるからこそ魔法をかけた言葉なのです。





最愛の人を亡くした時、いつもそばにいることに何も疑問を感じ

なかった「あたりまえ」が初めて見えるから人は「ありがとう」という

お別れの言葉を自然と口にするのです。

というより、あたりまえと思っていた楽しかった思い出に感謝する

から、「ありがとう」が究極のお別れの言葉で良いのです。








  

2015年03月11日

お釈迦様の逸話

お釈迦さまの教えは人間の心の葛藤の本質を突いているものが

多いのですが、「死は必然」であることを説いたゴータミーの

逸話は何度聞いても素晴らしい教えであると思います。




以下はゴータミーの逸話の要約です。
瀬戸内寂静著「寂庵説法」より引用

ゴータミーという若いお母さんがいました。赤ん坊が生まれましたが、一週間もたたないうちに、病気で死んでしまいました。
彼女はあまりの悲しさに、頭がおかしくなるほど泣き沈みました。
やがて、死んだ赤ちゃんをしっかり胸に抱きしめて、 「私の赤ちゃんを生き返らせて下さい」と言いながら町をさまよう彼女の姿を人々は見るようになりました。ある人があまり可哀そうなので、「むこうの森へ行くと、お釈迦さまがお説法をしていらっしゃいますよ。そこへ行って、お偉い方だからお願いしてごらん」といいました。

ゴータミーは喜んで、その森への道を教わって、すぐ駆けつけました。たくさんの人々がとりまいて座っている中心に、お釈迦さまがいらっしゃいました。何か尊いお説法を聞いているのでしょう。みんな声もたてず、お釈迦さまの方に顔を向けて、熱心に聴いています。ゴータミーは、その中に飛び込み、「あたしの赤ちゃんを行きかえらせてちょうだい」と叫びました。みんなは気のふれた女だと思い、取り押さえて外へつれだそうとしました。

その時、お釈迦さまが、「女よ、ここにいらっしゃい」と声をかけました。ゴータミーは、すぐお釈迦さまの前へすすみました。お釈迦さまは、ゴータミーにこのように言いました。 「この村の家々をまわって、けしの実をもらってきなさい。ただし、これまで一度も死人を出したことのない家のけしの実でなくてはいけない。それをもらってわたしの所に持ってきなさい。そうすれば、赤子は息を吹き返すだろう」
ゴータミーは勇んで、家々を回りました。我が子が生き返ると聞いた彼女は必死でした。

しかし、訪問をうけた家の人たちは、悲しく首を振るだけでした。
どの家を回ってもお釈迦さまの言われるけしの実は手に入りませんでした。死人を出したことのない家など一軒もなかったのです。その時、ゴータミーははっとしました。『愛するものを喪った悲しみはわたしひとりのものではない。これまで、みなが味わってきたかなしみなのだ。
生きとし生けるものは死をまぬかれることができない。そのことわりをしっかりと胸にだいて、かなしみをしずめなければならないのだ』。そう思ったとき、かなしみは消え、ゴータミーはブッダの弟子になったということです。



人は誰もが死ぬのです。葬儀という仕事をしていても

日常の生活の中でこの原理原則を忘れてしまうことがあるのです。

確かに「明日死ぬかもしれない」と思って人生を送っていたら心が

病んだり、疲れてしまいますがやはり原理原則を忘れるべきでは

ないのです。



葬儀の仕事をしているとお客様が嘆き悲しみ、悲しみの状態から

抜け出せない場面によく遭遇します。

「なんで私ばっかりがこんな目に遭うの」

とはっきりと口にされる方もいらっしゃいます。

そのような方を立ち直らせるにはこのお釈迦様の教えは大変効果が

あると思うのです。

「愛するものを喪った悲しみはわたしひとりの
ものではない。これまで、みなが味わってきた
悲しみなのだ」

これが人間の真理だから、人は悲しみにくれる人に優しくなれる

のだと思うのです。







  

Posted by フューネ三浦 at 08:30 │役立つ雑でない雑学

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2015年03月09日

「きょうよう」と「きょういく」

「きょうよう」「きょういく」はご存じですか?

通常は「教養」と「教育」と解釈すればよいのですが、

ここでは「今日の用事」と「今日行くところ」と解釈します。

「今日の用事」で「きょうよう」、

「今日行くところ」で「きょういく」と言う意味ですが、

これは高齢者の問題点を指摘する時によく用いるシャレなのです。

現役を引退した高齢者にとって切実な問題は

「朝、起きてもすることがない。

行くところがない」

といった方が多いのです。

日々忙しい私からは考えられないようなことですが、現役時代に

忙しい仕事人間であればあるほど、このような問題に直面する

ことが多いのだとか。

仕事上のお付き合いも大事ですが、それ以外のお付き合いをして

おかないと私も他人事とはいえません。




考えてみれば、誰もが今日する用事がある訳ではなく、誰もが

今日行くところがある訳でないということなのです。

本来、忙しい、忙しいと言っている間は本当に贅沢でありがたい

至福な時間なのでしょう。

そういった意味では私は本当に幸せです。




高齢者にとって、病院の通院も友人のお葬式もある意味楽しみな用事

です。それを証拠に葬儀の最中に大きな声で友人との久方ぶりの

談笑を大きな声でされている場面にしばしば出会います。

当人は気づかないけれど、周りの方は本当に迷惑であり、葬儀社の

社員としてもご年配の方に注意をするのもちょっと勇気がいる

ものです。くれぐれもTPOだけは気を付けて楽しく過ごして頂きたい

ものと思います。











  

Posted by フューネ三浦 at 08:26 │役立つ雑でない雑学

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2015年02月23日

漢字

フューネの入社試験では面接の他の筆記試験は漢字のテストのみ。

一人の社会人として英語や数学などの基礎知識も必要でしょうが、

葬儀社において漢字の読み書きの能力は特別に重要なのです。

葬儀において絶対に間違えられないのが人の名前と生花等の

供物につける看板名。次いでいうと請求書名もです。

常用漢字以外の漢字を頻繁にお客様とやりとりをするのには

一つの漢字に対して何種類の読み方や書き方を理解していなければ

ならないのです。




ご存じのように漢字はお隣の国、中国から入ってきた漢民族が使用

していた文字ですが、日本に入ってきて日本の仕様にアレンジされ、

本来の漢字の持つ、音読みに加え、訓読みという日本独特の読み方

も発明されました。それに加えてひらがなやカタカナの発明が今日の

日本語になっています。

常用漢字は約2000字ありますが、これは時代とともに中身が変わって

いく物です。

今の日本人はパソコンやスマートホフォンの普及により、書けない

けれど読める漢字を使用することが増えてきました。このことから

常用漢字の選考にも、多くの国民が書けないけれど、読める漢字が

常用漢字に入っていくようなのです。

例えば憂鬱の「鬱」なんで読めても書けないですよね。




アルファベットなどの外国の文字と違って覚えるのはとても大変

ですが、一度覚えてしまえば様々な表現ができるのが漢字の

一番素晴らしいことではないでしょうか。

自分の感情を漢字を変えるだけでわずかな違いを表現できて

しまうのですから。




自分の想いを表現できるからと言って少々困りものが

「キラキラネーム」と言われる子供の名前です。

どう読んでも読めない当て字や連想ゲームかと

突っ込みをいれたくなるような漢字にはこれから、葬儀社は

悩まされていくのでしょうか。

キラキラネームばかりの焼香の順位帳なんて考えただけでも

「ゾッ」とします。















  

Posted by フューネ三浦 at 08:38 │役立つ雑でない雑学

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2015年01月11日

遺体は腐敗する

これまでに何度かご遺体が腐っていく状態の記事をブログで書いて

きました。人の死において必ずしも綺麗な状態で死を迎えることが

不可能なのが現実です。直近の記事では

2014年12月11日付ブログ記事「腐敗臭」では腐敗するご遺体からの

強烈な匂いについて書かせて頂きました。

ご遺体が腐っていくにつれて想像を超えた強烈な匂いは経験した

ことがなければ、表現するのは難しいでしょう。



地域の皆様が葬儀について、積極的にお手伝い頂いていた時代と

違い、一般の日常の生活なかで、一般の方がご遺体に触れるという

機会はほとんど皆無です。つまり、多くの人の場合、ご遺体を目にする

ことさえ、ほとんど無いのです。このような中で、ご遺体に関する

一般的な知識を持つ方も減っています。先日、読んでいた葬儀関連の

書物の中では「遺体は腐敗する」という一般常識さえも

持ち合わせていない人がいるという嘆きの投稿がありました。

ご遺体が腐るということ知らないで1週間、2週間後に葬儀をして

しまったというケース。

最早、笑い事ではないのかもしれません。

ひと昔の葬儀の現場ではご遺体の保全に対し、お客様のほうが詳しい

ようなことが頻繁にあったのですが、今は警察や自衛隊、もしくは

医療関係者くらいしか知識を持ち合わせていません。

戦争体験者にとって死は隣合わせであり、ご遺体の処置の経験のある

方がほとんどです。ですから、高齢な方にとってはご遺体保全の知識は

一般常識なのですが、戦後70年経った今、戦争の経験者はかなりの

少数になってしまっています。



腐敗したご遺体の処理をする時にいつも私が思うのは

「絶対に戦争はするべきでない」

ということです。腐敗したご遺体の放つ異常ともいえる悪臭が

日常であった戦時中は匂いだけでも地獄です。

日航ジャンボ機の墜落の時に遺体安置所であった体育館もご遺体が

放つ異様な悪臭であったいうことですが、多くの死体が散乱する

戦場には同じ匂いがあったはずです。

戦争を知らない私が戦争のことをバーチャルでしか感じないように

今の若い世代にとってもご遺体の腐敗はバーチャルでしか感じる

ことができないのです。
























  

Posted by フューネ三浦 at 08:39 │役立つ雑でない雑学

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2014年11月25日

火を熾す。火を守る。

人間が他の動物と違う一番の違いが火を使うをことが出来るという

ことです。火を使うことによって自分よりも強い獣からも身を守る

ことが出来るようになったり、火を使って生では食べられない

食物さえも食べることが出来るようになったのです。人間が人間で

ある限り、いかに火を大切にしなければならないのです。

しかしながら、最近の子供達は火を触ることだけでなく火を見ることも

少なくなっています。理由は「危ない」から。

大人たちの都合もありますが、これでは教育上良くないと思います。

今ではマッチの使い方も知らない子供がたくさんいるのですから。

家庭においてもガスではなくオール電化によりIHの料理器ではガスの

炎さえも見ることが無いのです。

ある意味、キャンプでの火熾(ひおこ)しの体験や飯盒を使った調理など

は人間が人間として生きていく為には絶対に必要な教育なのです。




さて、葬儀の現場でも火は切っても切れない関係ですが、時代の流れ

の中で、少しずつ火を使うことが少なくなっています。

葬儀会館に使用するロウソクやキャンドルさえも下の写真のように

火を使わないダミーのものを使用することもあります。



本来、通夜・葬儀で使う「火」は獣からご遺体を守る為に絶対に

必要な道具でした。

ご遺体が放つ死臭によって獣が集まってくるのは自然界においては

当然の理です。残された遺族が朝までご遺体を獣から守る為に

夜を通じて寝ずに火の番をしたから「通夜」と言うのです。

現在行われている通夜は多くの方にお経が終わったら通夜が終わり

と錯覚させるほど、通夜本来の意味合いは全く無くなっています。

フューネのお客様においても朝までロウソクと線香を交代に替える番を

される通夜本来の行いをされるお客様はごくごく少数です。



現代は火を直接使わなくても自分の安全が守れる時代ですからそれは

それで便利さを享受していけば良いのですが、人間が他の動物と

違うのは「火を使える」ということの意味合いを絶対に

忘れてはならないのです。














  

Posted by フューネ三浦 at 08:41 │役立つ雑でない雑学

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2014年11月03日

商い

営利を目的とした法人が商業活動をすることを日本語では

「商い(あきない)」といいます。

「あきない」という言葉の響きは利害が対立する売り手と買い手の

ギスギスした心のひずみを埋めてくれるような優しさを秘めている

と私は思うのです。

近江商人の残した有名な商業道徳である「三方よし」

「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」

という商いに関わったすべての人が幸せになれる法則です。




商いの語源に遡ると昔、農家の方々が精魂こめて育て収穫した

実りを秋に織物などと交換したことによるものだとか。

秋に経済活動をしていたから「秋ない」なのです。

しかしながら 「商い」の本質は「空ない」なのです。

「空がない」ということはすべての人々が豊かになるという意味で

前述の三方よしは「空ない」を具現化する為の方策なのです。




居酒屋などのお店の入り口に「春夏冬中」と書かれた

看板ですが、これを「あきないちゅう」と読むことを知ったのは

大人になってからでした。「春・夏・冬」では秋という季節がない

ので「あきない」というダジャレだそうですが、これを知った時、

とても面白かったのを覚えています。ただ、秋に経済活動をして

いたという語源からは正反対ですね。



商売人にとって商いとは「飽きない」です。

仕事というものは一見単調な繰り返しのようですが、実は毎回

違う出会いがあり、ストーリーがあり、一度たりとて同じことは

ないのです。そして、商売人にとって商売は楽しいものです。

だからこそ、「飽きない」。

私たちの葬儀という仕事は単に「商売」という表現を使うと誤解を招く

ことがありますが、お客様との出会いは不思議な縁で繋がっている

のであり、あえて言葉で表現するならばお亡くなりになられた方が

結んでくれた「仏縁」です。

この「仏縁」が今日も誰かと繋がっていくからこそ、私にとって

「商い」は「飽きない」なのです。




















  

2014年10月25日

北枕

人がお亡りなると、ご遺体として安置をしなければなりません。

葬儀社としてその際、一番意識をしていることは方角です。

一般的に北に頭を向ける恰好で安置をします。

これは仏教の祖であるお釈迦様がお亡くなりの際、北の方角へ

頭を置いて横になった“頭北面西”(ずほくめんさい)

いわれることから来ています。つまりお釈迦様がお亡くなりに

なった姿を真似ているのです。お釈迦様がお亡くなりになったことを

仏教用語で「入滅(にゅうめつ)」と言います。

入滅とは煩悩の炎が吹き消えた状態、宗教的解放を意味する解脱の

ことなのです。このような状態になるのが「死」とも言えるのです。




大原則、北に頭を向けて安置するのですが、安置する部屋の都合で

北側に頭を向けることが出来ない場合もあります。

そのような場合は「西」に向けるのです。これは前述の

頭北面西”(ずほくめんさい)の理屈を用いてお釈迦様がお亡くなりの

時に顔が西を向いていたことに由来するものです。

また浄土宗系の宗派ではあの世は真西にあると考えられていますの

で西を向くことは良いと考える宗派もあります。




葬儀会館での葬儀が全盛の昨今、ホールの都合で頭を北にも西にも

向けることができないホールも存在します。立地上仕方のないところ

もありますが、やはり、葬儀会館としては不完全です。

しかし、祭壇がある方が北とみなし、祭壇に向かって左側に頭を向ける

ことで西枕にするといったケースもあります。また、祭壇に向かって

右側に頭を向けるほうが上座だといわれるお寺様もいらっしゃり、

結構、葬儀社によって葬儀会館内の方角はまちまちなのです。



北枕は縁起が悪いと昔から言われてきましたが、縁起なんてものは

その人の考え方次第ですべて決まるものです。

方角の意識はお客様も最近ではあまり気にされなくなってきたのも

事実です。様々の考え方の中で「北枕」は案外少数派なのかも

しれません。












  

Posted by フューネ三浦 at 08:53 │役立つ雑でない雑学

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2014年10月19日

本籍とは

本籍とは一言で説明すると戸籍の所在場所です。

日本の現行戸籍制度において、戸籍に記載される人が任意に定める、

日本国内のいずれかの場所のことなのです。

本籍は現住所とは無関係に日本国内の地番があるところであれば、

戸籍に記載される人が任意に定めることができます。

つまりどこでもかまわないのです。

どこでもかまわないのですから、結果的に1か所の土地に何人かの

本籍が置かれることもあります。

日本で最も本籍にしている人が多い地番は

東京都千代田区千代田1-1-1

皇居の住所なのです。

他に人気の住所地は「富士山山頂」「 国会議事堂」

「首相官邸」「東京スカイツリー」

「甲子園球場」
などに本籍を置く人が多いのだとか。

とにかく、本籍地は自分は何者なのかを立証する書類の置き場所が

本籍なのです。



さて、本籍は現住所とは違い日常の生活の中でさほど、意識する

ことはありません。その為、自分自身の本籍がどこにあるのか

が解っていない方は非常に多いのです。

特に引っ越しを繰り返している方だとどこに本籍を置いてきたか

解らなくなってしまったり、何十年も前に以前の住んでいた場所に

本籍が残っていたりするものです。

人が亡くなると戸籍を抹消する必要があります。

厳密にいうと戸籍は抹消ということでなく、「死んだ」という事実を

書き加えることが多いのです。なぜならば戸籍は家族単位で

登録されており、その家族(親族)が残っている限りは残して

おかなければなりません。そうしないと自分の子孫たちが自分は

どこから来たのか、何者なのかが解らなくなるのです。




葬儀の打ち合わせの際には必ず、お亡くなりの方の本籍地を

ご遺族の皆様にお伺いします。前述すた理由で即答を出来る

方のほうが少なく、調べて貰うことになるのですが、以前であれば

「運転免許証に記載がありますよ」

とアドバイスをすれば良かったのですが、今は記載がありません。

これは結構不便なことなのです。

ご遺族の皆様は時として親戚縁者の皆様に聞くのですが、それでも

解らないこともあり、そのような時は現住所のある役所に出向いて

調べて貰うしかありません。

いざという時に慌てないように、現住所同様に本籍地を子や孫にも

情報を共有しておくことはとても大切なことです。


































  

Posted by フューネ三浦 at 10:28 │役立つ雑でない雑学

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2014年06月07日

殯(もがり)

殯(もがり)という言葉はご存じですか。

2007年公開された『殯の森』という映画で覚えている方も

いらっしゃるかと思います。

この映画は第60回カンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールに次ぐ、

審査員特別大賞「グランプリ」を受賞した作品として有名です。

殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を

本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、

死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・

白骨化などの物理的変化を確認することにより、

死者の最終的な「死」を確認すること。

と辞書では解説しています。

『殯の森』という映画では生き残った者と死者との「結び目のような

あわい(間・関係)を描く物語」を目指し映画監督の河瀬直美が

暮らす奈良を舞台に、家族を失った二人の登場人物、認知症の老人と

女性介護士のふれあいを通して人間の生と死を描いた劇映画でした。




殯という日本古来の葬送儀礼では人は亡くなったら喪屋という遺体を

安置しておく小屋を建て、人が死んでもすぐに埋葬したりせず、

長い期間死者を鎮魂していました。場合によっては白骨化するまで

おいていたようです。古事記には殯の記述があり、死者に食事を供し、

死を嘆き悲しみ歌い踊ったということが書いてあります。

どうしてこのようなことをしていたのかという研究は進んでいますが、

一番は昔は現代の医学のように

科学的に死を認定する手法が無かったのです。

つまり、生きているか死んでいるのかということは長い期間の判定が

必要でした。その間はずっとお葬式であり、現代のお葬式は点だと

すれば面で捉えているのが古代のお葬式の考え方です。

現代では通夜さえも省略してしまうほど、簡素化された「点」

になっています。古代の日本人が現代のお葬式を見たらきっと

びっくりしてしまうでしょう。









  

Posted by フューネ三浦 at 09:05 │役立つ雑でない雑学

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2014年06月05日

人形

人形という漢字は大方「にんぎょう」と読みますが、別の読み方で

「ひとがた」と読みます。

特に、「ひとがた」と読む場合の人形は宗教色が強い場合が多く、

私たちを守る「身代わり」という意味があります。

神道では米、飯、酒などのほか玉串、青果物、魚(生魚、干物)

あるいは菓子類の飲食物等をお供えしますが、これを神様の食べ物

として神饌(しんせん)と呼ばれています。

神饌の種類には野の物、山の物、海の物と自然界のあらゆる幸が

お供えされるのですがその中に生の物もあります。

それを通常は生贄(いけにえ)といいます。

生贄とは、神への供物として生きた動物を供えることで馬や牛など

生きたままお供えします。

生贄にされた動物をそのまま食してしまう場合と神域で飼う場合が

あります。神道では現代では人は生贄の対象ではないとはっきりと

明示されていますが、人間を生贄として供える慣習もかつてはあり、

これは特に「人身御供(ひとみごくう)」と呼んでいます。

これは日本に限らず、世界中で行われていたことです。

世界の宗教の共通しているひとつの見解として最も重要と

考えられる人身を供物として捧げる事は、神などへの

最上級の奉仕だということです。



私たちが自分自身が生贄の対象にならずに、同じ効果を発する

身代わりとして用いたのが「人形」なのです。

現代ではなかなか少なくなりましたが、例えば地鎮祭においても

神への捧げものとして「人形」を建設予定敷地内に埋めることも

あります。また土葬の習慣の残る地域では餅を人の形に切り、

それを食べることで「身代わり」になるという風習の残っている

ところもあります。

宗教的な意味合いから考えてみますと人形とは結構、重要な

役割をしているのです。








フューネが定期的に行う「人形供養祭」には毎回多数の人形が

集まります。以前あるゴミの収集業者の方が「わざわざ人形を

供養しなくても普通の燃えるゴミで家庭から出せるのになぜ?」


という趣旨のことを言われていましたが、残念ながらこの方は

人形を物資的にしか捉えていないから本質がわからないのです。

大切にしてきたぬいぐるみなどは前述した意味合いなどわかって

いなくても漠然と自分の分身だと思っているからこそ、多くの方が

人形供養を望むのです。












  

Posted by フューネ三浦 at 08:34 │役立つ雑でない雑学

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2014年05月05日

戦う

辞書によると「戦う」とは「戦争をする」という意味であり、

語源をたどると「叩く」の未然形に反復継続の助動詞「ふ」

の付いたものと解説しています。

平和な世の中の中で、意味合いからすれば「戦う」という言葉は

物騒な感じを連想しますが、私たちの身の周りには「戦う」という

動詞を用いなければならない出来事が多数あります。




単純にスポーツとして「戦い」をゲームに出来ることは良いのですが、

学校の成績や仕事上の競争が「戦い」になってしまう現代社会です。

「戦い」には必ず勝敗が付き物で「勝つ」「負ける」といった

結果が私たちを歓喜させてくれますし、時として再起不能まで消沈させて

くれます。

葬儀業界においても「お客様によりよい葬祭サービスを提供する」為に

業界内における「戦い」は益々激しさを増しています

お互いが切磋琢磨して、サービスの質の向上に繋がる戦いなら、結果的に

お客様が得をしますが、単純に価格の競争になってしまうと結果的に

サービスの質が粗悪な商品が世に出てしまうのがなんとも淋しいことです。





葬儀が発生するということはお亡くなりになられた方は大抵の場合、

病気と戦って負けた方です。

負けたという言うより、力尽きた結果です。

それほど、病気と戦うということは「闘う」という漢字の通り、

病気との一騎打ちの壮絶な戦いです。

ちなみに「戦う」と「闘う」の違いは「戦う」という漢字は不特定多数や

特定多数の何かと戦うときに使用し、「闘う」という漢字を使う時は

相手が限定できる時に使うのです。

しかしながら、お葬式には「負け」はありません。

病気には「負けた」かもしれないのですが、その人の人生や人格に負けは

ありません。ですから、お葬式は「勝ち」が大前提なのです。

ですが、最近のお葬式は人生の「勝ち」なのかと疑うような淋しい

お葬式が多くなってきています。

もちろん、小規模がすべて「負け」ではないのですが、

葬儀を執行する喪主は例え小規模なお葬式でも「勝ち」を意識したしつらえに

しなければ絶対にいけません。

お葬式は人の一生の中で様々な戦いに勝ってきたことをお祝いする

祝勝会なのですから。










  

Posted by フューネ三浦 at 09:01 │役立つ雑でない雑学

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2014年02月04日

思いやりと優しさの違い

昨年、2020年東京オリンピック開催決定や和食が無形文化遺産登録決定

などうれしいニュースが飛び込んできました。

今、海外から見た日本は全世界が注目する国の一つです。

「お・も・て・な・し」に代表されるように日本は

究極の「思いやり文化」を持った国なのです。

他人に対して思いやる心は「利他の心」

「惻隠(そくいん)の情」
と言うちょっと難しい言葉で

表現をされることがあります。

「利他の心」は「他人を思いやる心」いう意味がストレートに入って

いますが、「惻隠の情」は

「他人のことをいたましく思って同情する心」

いう意味で「弱者をいたわる思いやりの心」なのです。

明治時代、新渡戸稲造が著書「武士道」の中で武士の心(日本人)の心の

根底にこの「惻隠の情」があるということを英文で全世界に知らしめた

のです。それ以来、世界では「SAMURAI」という言葉は「思いやり」と

同義語になったのです。





ところで、「思いやり」と「優しさ」の違いはご存知でしょうか。

「優」という時は「すぐれている」とも読みます。

つまり、「優しさ」とは知らず知らずの内に誰かと比べてしまっているのです。

誰かと比べて自分より、不幸な人や目下の人に何かしらの施しをすることが

優しさ、分け隔てなく施しをすることを「思いやり」というのです。





仏教の経典では思いやりのことを「慈悲(じひ)の心」と言います。

人が亡くなるとこの世からあの世に行くのですが、

解りやすく例えるならば、この世側の駅に1番線から3番線まで

電車が止まっています。

1番線の電車は極楽浄土直行の特急列車。

2番線の電車は地獄経由極楽浄土行きの急行列車。

3番線の電車は地獄行きの電車。


亡くなると仏教ではこのどれかに乗らなければならないとされています。

ほとんどの人は「地獄経由極楽浄土行き」の電車に乗ることになるのですが、

この世で悪いことした人は地獄行きの電車に乗ることしか出来ません。

では極楽浄土直行の電車に乗れる人というのは生前に「慈悲(じひ)の心」が

あった人だけと言われています。

誰もが極楽浄土に行きたいと願っていたからこそ、「慈悲(じひ)の心」が

「武士道精神」に、そして「思いやり文化」を形成していったのです。




ちなみに「慈悲(じひ)の心」を体現している一番の仏様は

観音菩薩様。俗に言う「観音さま」ですが庶民にとって古来より

信仰の対象になっているのは観音さまにあやかって「極楽浄土」に

行きたいという願いからなのです。




「思いやりの心」は1000年以上続く仏教の教えが大きく起因して

いるのです。





























  

Posted by フューネ三浦 at 08:59 │役立つ雑でない雑学

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2014年01月25日

魚の釣り方・魚の食べ方

私たちが生きていく為には、常に将来のことを考えていなければ

ならないのです。家庭においても、企業においても、地域社会においても、

壮大なレベルにいけば国や地球の将来までも考えることが大切です。

誰もが幸せでありたい、豊かな暮らしをしたいと願うのは必定であり、

少々今が辛くても、将来は明るいほうが絶対に良いのです。

江戸時代の思想家、二宮尊徳が残した言葉で次のような言葉があります。

「今年の衣食は去年の産業にあり。来年の衣食は今年の艱難にあり。」

今年が豊かに衣食に恵まれて生活できるのは去年仕事を頑張ったから

である。来年が衣食に恵まれるのは今、辛い中でもしっかりと努力し、

働くからである。

という意味です。つまり、今の暮らしは過去の自分のご褒美であり、

将来の暮らしは今の頑張りだということ。

言われてみれば納得の教えです。





さて、よく例えに使う例題ですが、お腹を空かして飢え死にしそうな人に

「釣った魚を食べさせる」ことが正しいのか

「魚の釣り方を教える」ことが正しいのかという問いがあります。

今日、今の時を解決するならば「釣った魚を食べさせる」ことが正しいの

でしょうが、将来のことを考えたとき、その人のことを真剣に考えれば

「魚の釣り方を教える」ことが確実に正しいのです。

教育とは「魚の釣り方を教える」ことであり、自然界において親は子に

「釣った魚を食べさせる」ことは自分の居なくなったら子は死ぬことを

意味します。将来を見据えると「魚の釣り方を教える」を教えることが

いかに大切か解ります。

もちろん、会社で上司が部下に教えることも同じ理屈なのですが、

部下を育てられない上司は必ずと言っていいほど、

「釣った魚を食べさせる」ことになっているのです。

運転が未熟だと言って運転をさせず、
上司が運転をしてしまう。

作業が遅いと言って自分でやってしまう。


このようなことを平気でやっている社員を残念ながらフューネ内でも

見かけます。

将来を考えた時、辛い中でもしっかりと努力し働くことを大切にすることが

豊かな未来の入り口なのです。


















  

Posted by フューネ三浦 at 09:00 │役立つ雑でない雑学

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2013年12月27日

初もうでに行っていいの?

この時期に今年お葬式をされたお客様から多く受けるご質問に

「初もうでに行っていいの?」

というご質問があります。

喪中(49日間程度)の間は行ってはいけないと聞いているのだけど実際は

どうなのですかという補足の質問にお答えします。

そもそも、初もうでに行ってはいけないというのは死者を出した家には

「死の穢れ(けがれ)」がついているところから来ています。


ケガレについては

2008年3月8日付ブログ記事「ハレとケ」
http://fune.boo-log.com/e10679.html

2009年7月9日付ブログ記事「清め塩」
http://fune.boo-log.com/e55808.html

をご覧ください。


意外に思う方もいらっしゃると思いますが仏教では死を穢れとは

みなしません。それを証拠にお寺で葬儀を執り行うことも一般的に

行われています。死と向き合うことがお寺だととも言えます。

死の穢れを嫌うのは神道(神社)の考え方なのです。

喪中の間は神社の鳥居をくぐることはご法度です。

ですから、喪中の方の神社への初もうでは控えたほうが良いのです。

しかし、お寺への初もうでは喪中の間の方でも厳密には大丈夫です。




悠久の歴史の中で日本人の心に神様と仏様を一緒に考える価値観が

ありました。これを専門的に神仏習合というのですが、初もうでも

神社もお寺も一緒に考えてしまうようになってしまったのです。

実際に初もうでに行くか行かないかという行動の決定はその人の

信仰心によってまちまちです。

神道の信仰心が無い人に対し死の穢れの話をしても全くおかしな話で

すし、キリスト教・イスラム教徒の外国人に神道の穢れを説明しても

イマイチ理解してくれないものです。

初もうでは一年の始まりです。いつ行くかはお任せするにして

神様・仏様に年の初めのご挨拶をしたいと思うのが日本人なのです。





  

Posted by フューネ三浦 at 09:08 │役立つ雑でない雑学

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2013年12月06日

銀行口座凍結

今から銀行にお金を引き出しに行くから死亡診断書の提出をちょっと

待ってくださいとお客様からよく依頼されます。

人が亡くなると銀行口座は基本的に凍結されて預金の引き出しが

できなくなります。ですから、凍結をされる前にお金を引き出しておこうと

このようなお客様のご依頼を受けることになるのです。

人が亡くなると銀行の口座が凍結されることは多くの方がご存じですが、

一体いつから凍結されるかを知っている方はほとんどいらっしゃいません。

亡くなった瞬間に凍結されると思っていらっしゃる方、

死亡診断書を提出した瞬間に凍結されると思っていらっしゃる方、

その他の理由を述べられる方もいらっしゃいます。

正解は銀行が知った時からです。

なんだと思う方もいらっしゃると思いますが、銀行とて知った時からで

しか対応できません。一般的には地域や会社関係に訃報が出回った時に

口座凍結されることが多いのです。

しかしながら、近年の家族葬の増加で訃報が流れず、葬儀の後に

遺族の申告で口座が凍結されるケースも増えています。

注意して頂きたいのは死亡後、当面の必要経費を引き出すのは

許容範囲ですが多額の現金を引き出すことはあとあと大問題になって

しまいます。




では、どうやって口座凍結を解除できるのでしょうか。

あくまでも一般的な流れとして各金融機関に連絡し、必要書類を確認し、

各所から書類を取り寄せます。

その後、相続人全員で遺産分割協議をして各金融機関へ必要書類を提出

しやっと口座凍結が解除されます。

この間平均3カ月くらいかかりますが、 遺産分割協議で揉めてしまうと

長時間を費やすこともあります。




お客様の中には口座凍結の為、「葬儀代が払えない」と言われる方が

いらっしゃいますが、大丈夫です。

葬儀代の請求書と相続人全員の承認があれば、口座凍結中でも

葬儀代などの必要経費は先に引きだすことが可能です。










  

Posted by フューネ三浦 at 09:02 │役立つ雑でない雑学

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2013年10月03日

続・おもてなし

オリンピック招致の最終プレゼンにて滝川クリステルさんが

手を使い表現した「お・も・て・な・し」

2020年の東京オリンピック決定と同時に一気にブレイクをしました。

「おもてなし」については2012年10月12日付ブログ記事「おもてなし」

でご紹介させて頂きました。ブログの中で


日本人ならではの「相手を思いやる心」

がストレートに入った「おもてなし」は

世界のサービス業の最高級ブランドになり得る


と断言させて頂きましたが、今回のプレゼンもそのことに自信があるから

使用したのでしょう。




私の著書「感動葬儀。心得箇条」156ページの中でも

「おもてなし」について触れています。

葬儀のかたちも、その内容に付随するサービスも、まさにピンからキリまで存在します。そうした中、弊社では一貫して「感動葬儀。」を打ち出しています。
葬儀は感動でなければならない。いえ感動がなければ葬儀ではないとさえ思っています。そのために大事にしているのは、まず第一に「もてなし」です。
茶道に集約されているように、「もてなし」とは、まさに伝統文化そのもの。「もてなす」とは「物をもって為す」ということで、目には見えない心を、物と行動によって相手に伝えようとするものです。





「感動葬儀。」を構成する核心の部分こそ「もてなし」であり、

「お・も・て・な・し」は日本人のアイデンティーが凝縮された

「日本流」歓待なのです。

王様の奴隷という意味が語源の「サービス」や

「客人の保護者」や「歓待」という意味の「ホスピタリティ」とは違う

「おもてなし」は世界共通語になっていく可能性を秘めている

すばらしい言葉です。




  

Posted by フューネ三浦 at 09:36 │役立つ雑でない雑学

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2013年09月05日

孝と悌

孝悌(こうてい)は、儒教における根本的な徳目のひとつです。

「孝」はよく父母に仕えること、「悌」は兄によく仕えることです。



フューネでは「お葬式は最後の親孝行」という

キャッチフレーズで親のお葬式を行うことは親孝行なんだということを

お客様に啓蒙しています。人として生まれた以上、自分の命の元である

親に感謝するのは当たり前であり、ほとんどの人々は何かしら親孝行を

したいと思っています。

しかしながら、親の死が近づくにつれてこれまでに親孝行をしてこなかった

ことを嘆いているお客様にお葬式の事前相談等でしばし出会います。

そのような時に「お葬式は最後の親孝行ですよ」とフューネの

葬祭ディレクターがアドバイスをするとお客様は「間に会った」という

表情をされるのです。

つまり、親孝行とは親の死まですることのできるものなのです。



さて、孝に比べ悌はなかなか出来ていないのが実情です。

お葬式の現場ではよく不仲な兄第に遭遇します。

相続や何かしらの揉め事で不仲になったとは思いますが、不仲になる原因を

たどると大抵の場合順序が守られていないのです。

長男・次男・三男・・・という序列があり、年長者を敬うという観点から

いえば絶対に守らなければならない順序です。しかしながら、現在の憲法が

保証している「平等」という大義を名目に弟たちが「兄によく仕える」という

ことを忘れてしまっているケースがほとんどです。兄弟が仲が悪いと自覚の

ある方は今一度、「悌」」という教えを振りかえるべきです。





まず家庭で守られるべき徳として儒教が提唱してきた「孝悌」について

孟子は、秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親や年長者に

対する親愛・敬愛の心、すなわち「孝悌の心」を忘れない

ことが肝要であると説いています。お葬式を円滑に行うことのできる

家族には必ず「孝悌の心」が備わっているのです。

  

Posted by フューネ三浦 at 09:55 │役立つ雑でない雑学

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