2014年11月03日

商い

営利を目的とした法人が商業活動をすることを日本語では

「商い(あきない)」といいます。

「あきない」という言葉の響きは利害が対立する売り手と買い手の

ギスギスした心のひずみを埋めてくれるような優しさを秘めている

と私は思うのです。

近江商人の残した有名な商業道徳である「三方よし」

「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」

という商いに関わったすべての人が幸せになれる法則です。




商いの語源に遡ると昔、農家の方々が精魂こめて育て収穫した

実りを秋に織物などと交換したことによるものだとか。

秋に経済活動をしていたから「秋ない」なのです。

しかしながら 「商い」の本質は「空ない」なのです。

「空がない」ということはすべての人々が豊かになるという意味で

前述の三方よしは「空ない」を具現化する為の方策なのです。




居酒屋などのお店の入り口に「春夏冬中」と書かれた

看板ですが、これを「あきないちゅう」と読むことを知ったのは

大人になってからでした。「春・夏・冬」では秋という季節がない

ので「あきない」というダジャレだそうですが、これを知った時、

とても面白かったのを覚えています。ただ、秋に経済活動をして

いたという語源からは正反対ですね。



商売人にとって商いとは「飽きない」です。

仕事というものは一見単調な繰り返しのようですが、実は毎回

違う出会いがあり、ストーリーがあり、一度たりとて同じことは

ないのです。そして、商売人にとって商売は楽しいものです。

だからこそ、「飽きない」。

私たちの葬儀という仕事は単に「商売」という表現を使うと誤解を招く

ことがありますが、お客様との出会いは不思議な縁で繋がっている

のであり、あえて言葉で表現するならばお亡くなりになられた方が

結んでくれた「仏縁」です。

この「仏縁」が今日も誰かと繋がっていくからこそ、私にとって

「商い」は「飽きない」なのです。




















  

2014年10月25日

北枕

人がお亡りなると、ご遺体として安置をしなければなりません。

葬儀社としてその際、一番意識をしていることは方角です。

一般的に北に頭を向ける恰好で安置をします。

これは仏教の祖であるお釈迦様がお亡くなりの際、北の方角へ

頭を置いて横になった“頭北面西”(ずほくめんさい)

いわれることから来ています。つまりお釈迦様がお亡くなりに

なった姿を真似ているのです。お釈迦様がお亡くなりになったことを

仏教用語で「入滅(にゅうめつ)」と言います。

入滅とは煩悩の炎が吹き消えた状態、宗教的解放を意味する解脱の

ことなのです。このような状態になるのが「死」とも言えるのです。




大原則、北に頭を向けて安置するのですが、安置する部屋の都合で

北側に頭を向けることが出来ない場合もあります。

そのような場合は「西」に向けるのです。これは前述の

頭北面西”(ずほくめんさい)の理屈を用いてお釈迦様がお亡くなりの

時に顔が西を向いていたことに由来するものです。

また浄土宗系の宗派ではあの世は真西にあると考えられていますの

で西を向くことは良いと考える宗派もあります。




葬儀会館での葬儀が全盛の昨今、ホールの都合で頭を北にも西にも

向けることができないホールも存在します。立地上仕方のないところ

もありますが、やはり、葬儀会館としては不完全です。

しかし、祭壇がある方が北とみなし、祭壇に向かって左側に頭を向ける

ことで西枕にするといったケースもあります。また、祭壇に向かって

右側に頭を向けるほうが上座だといわれるお寺様もいらっしゃり、

結構、葬儀社によって葬儀会館内の方角はまちまちなのです。



北枕は縁起が悪いと昔から言われてきましたが、縁起なんてものは

その人の考え方次第ですべて決まるものです。

方角の意識はお客様も最近ではあまり気にされなくなってきたのも

事実です。様々の考え方の中で「北枕」は案外少数派なのかも

しれません。












  

Posted by フューネ三浦 at 08:53 │役立つ雑でない雑学

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2014年10月19日

本籍とは

本籍とは一言で説明すると戸籍の所在場所です。

日本の現行戸籍制度において、戸籍に記載される人が任意に定める、

日本国内のいずれかの場所のことなのです。

本籍は現住所とは無関係に日本国内の地番があるところであれば、

戸籍に記載される人が任意に定めることができます。

つまりどこでもかまわないのです。

どこでもかまわないのですから、結果的に1か所の土地に何人かの

本籍が置かれることもあります。

日本で最も本籍にしている人が多い地番は

東京都千代田区千代田1-1-1

皇居の住所なのです。

他に人気の住所地は「富士山山頂」「 国会議事堂」

「首相官邸」「東京スカイツリー」

「甲子園球場」
などに本籍を置く人が多いのだとか。

とにかく、本籍地は自分は何者なのかを立証する書類の置き場所が

本籍なのです。



さて、本籍は現住所とは違い日常の生活の中でさほど、意識する

ことはありません。その為、自分自身の本籍がどこにあるのか

が解っていない方は非常に多いのです。

特に引っ越しを繰り返している方だとどこに本籍を置いてきたか

解らなくなってしまったり、何十年も前に以前の住んでいた場所に

本籍が残っていたりするものです。

人が亡くなると戸籍を抹消する必要があります。

厳密にいうと戸籍は抹消ということでなく、「死んだ」という事実を

書き加えることが多いのです。なぜならば戸籍は家族単位で

登録されており、その家族(親族)が残っている限りは残して

おかなければなりません。そうしないと自分の子孫たちが自分は

どこから来たのか、何者なのかが解らなくなるのです。




葬儀の打ち合わせの際には必ず、お亡くなりの方の本籍地を

ご遺族の皆様にお伺いします。前述すた理由で即答を出来る

方のほうが少なく、調べて貰うことになるのですが、以前であれば

「運転免許証に記載がありますよ」

とアドバイスをすれば良かったのですが、今は記載がありません。

これは結構不便なことなのです。

ご遺族の皆様は時として親戚縁者の皆様に聞くのですが、それでも

解らないこともあり、そのような時は現住所のある役所に出向いて

調べて貰うしかありません。

いざという時に慌てないように、現住所同様に本籍地を子や孫にも

情報を共有しておくことはとても大切なことです。


































  

Posted by フューネ三浦 at 10:28 │役立つ雑でない雑学

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2014年06月07日

殯(もがり)

殯(もがり)という言葉はご存じですか。

2007年公開された『殯の森』という映画で覚えている方も

いらっしゃるかと思います。

この映画は第60回カンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールに次ぐ、

審査員特別大賞「グランプリ」を受賞した作品として有名です。

殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を

本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、

死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・

白骨化などの物理的変化を確認することにより、

死者の最終的な「死」を確認すること。

と辞書では解説しています。

『殯の森』という映画では生き残った者と死者との「結び目のような

あわい(間・関係)を描く物語」を目指し映画監督の河瀬直美が

暮らす奈良を舞台に、家族を失った二人の登場人物、認知症の老人と

女性介護士のふれあいを通して人間の生と死を描いた劇映画でした。




殯という日本古来の葬送儀礼では人は亡くなったら喪屋という遺体を

安置しておく小屋を建て、人が死んでもすぐに埋葬したりせず、

長い期間死者を鎮魂していました。場合によっては白骨化するまで

おいていたようです。古事記には殯の記述があり、死者に食事を供し、

死を嘆き悲しみ歌い踊ったということが書いてあります。

どうしてこのようなことをしていたのかという研究は進んでいますが、

一番は昔は現代の医学のように

科学的に死を認定する手法が無かったのです。

つまり、生きているか死んでいるのかということは長い期間の判定が

必要でした。その間はずっとお葬式であり、現代のお葬式は点だと

すれば面で捉えているのが古代のお葬式の考え方です。

現代では通夜さえも省略してしまうほど、簡素化された「点」

になっています。古代の日本人が現代のお葬式を見たらきっと

びっくりしてしまうでしょう。









  

Posted by フューネ三浦 at 09:05 │役立つ雑でない雑学

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2014年06月05日

人形

人形という漢字は大方「にんぎょう」と読みますが、別の読み方で

「ひとがた」と読みます。

特に、「ひとがた」と読む場合の人形は宗教色が強い場合が多く、

私たちを守る「身代わり」という意味があります。

神道では米、飯、酒などのほか玉串、青果物、魚(生魚、干物)

あるいは菓子類の飲食物等をお供えしますが、これを神様の食べ物

として神饌(しんせん)と呼ばれています。

神饌の種類には野の物、山の物、海の物と自然界のあらゆる幸が

お供えされるのですがその中に生の物もあります。

それを通常は生贄(いけにえ)といいます。

生贄とは、神への供物として生きた動物を供えることで馬や牛など

生きたままお供えします。

生贄にされた動物をそのまま食してしまう場合と神域で飼う場合が

あります。神道では現代では人は生贄の対象ではないとはっきりと

明示されていますが、人間を生贄として供える慣習もかつてはあり、

これは特に「人身御供(ひとみごくう)」と呼んでいます。

これは日本に限らず、世界中で行われていたことです。

世界の宗教の共通しているひとつの見解として最も重要と

考えられる人身を供物として捧げる事は、神などへの

最上級の奉仕だということです。



私たちが自分自身が生贄の対象にならずに、同じ効果を発する

身代わりとして用いたのが「人形」なのです。

現代ではなかなか少なくなりましたが、例えば地鎮祭においても

神への捧げものとして「人形」を建設予定敷地内に埋めることも

あります。また土葬の習慣の残る地域では餅を人の形に切り、

それを食べることで「身代わり」になるという風習の残っている

ところもあります。

宗教的な意味合いから考えてみますと人形とは結構、重要な

役割をしているのです。








フューネが定期的に行う「人形供養祭」には毎回多数の人形が

集まります。以前あるゴミの収集業者の方が「わざわざ人形を

供養しなくても普通の燃えるゴミで家庭から出せるのになぜ?」


という趣旨のことを言われていましたが、残念ながらこの方は

人形を物資的にしか捉えていないから本質がわからないのです。

大切にしてきたぬいぐるみなどは前述した意味合いなどわかって

いなくても漠然と自分の分身だと思っているからこそ、多くの方が

人形供養を望むのです。












  

Posted by フューネ三浦 at 08:34 │役立つ雑でない雑学

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2014年05月05日

戦う

辞書によると「戦う」とは「戦争をする」という意味であり、

語源をたどると「叩く」の未然形に反復継続の助動詞「ふ」

の付いたものと解説しています。

平和な世の中の中で、意味合いからすれば「戦う」という言葉は

物騒な感じを連想しますが、私たちの身の周りには「戦う」という

動詞を用いなければならない出来事が多数あります。




単純にスポーツとして「戦い」をゲームに出来ることは良いのですが、

学校の成績や仕事上の競争が「戦い」になってしまう現代社会です。

「戦い」には必ず勝敗が付き物で「勝つ」「負ける」といった

結果が私たちを歓喜させてくれますし、時として再起不能まで消沈させて

くれます。

葬儀業界においても「お客様によりよい葬祭サービスを提供する」為に

業界内における「戦い」は益々激しさを増しています

お互いが切磋琢磨して、サービスの質の向上に繋がる戦いなら、結果的に

お客様が得をしますが、単純に価格の競争になってしまうと結果的に

サービスの質が粗悪な商品が世に出てしまうのがなんとも淋しいことです。





葬儀が発生するということはお亡くなりになられた方は大抵の場合、

病気と戦って負けた方です。

負けたという言うより、力尽きた結果です。

それほど、病気と戦うということは「闘う」という漢字の通り、

病気との一騎打ちの壮絶な戦いです。

ちなみに「戦う」と「闘う」の違いは「戦う」という漢字は不特定多数や

特定多数の何かと戦うときに使用し、「闘う」という漢字を使う時は

相手が限定できる時に使うのです。

しかしながら、お葬式には「負け」はありません。

病気には「負けた」かもしれないのですが、その人の人生や人格に負けは

ありません。ですから、お葬式は「勝ち」が大前提なのです。

ですが、最近のお葬式は人生の「勝ち」なのかと疑うような淋しい

お葬式が多くなってきています。

もちろん、小規模がすべて「負け」ではないのですが、

葬儀を執行する喪主は例え小規模なお葬式でも「勝ち」を意識したしつらえに

しなければ絶対にいけません。

お葬式は人の一生の中で様々な戦いに勝ってきたことをお祝いする

祝勝会なのですから。










  

Posted by フューネ三浦 at 09:01 │役立つ雑でない雑学

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2014年02月04日

思いやりと優しさの違い

昨年、2020年東京オリンピック開催決定や和食が無形文化遺産登録決定

などうれしいニュースが飛び込んできました。

今、海外から見た日本は全世界が注目する国の一つです。

「お・も・て・な・し」に代表されるように日本は

究極の「思いやり文化」を持った国なのです。

他人に対して思いやる心は「利他の心」

「惻隠(そくいん)の情」
と言うちょっと難しい言葉で

表現をされることがあります。

「利他の心」は「他人を思いやる心」いう意味がストレートに入って

いますが、「惻隠の情」は

「他人のことをいたましく思って同情する心」

いう意味で「弱者をいたわる思いやりの心」なのです。

明治時代、新渡戸稲造が著書「武士道」の中で武士の心(日本人)の心の

根底にこの「惻隠の情」があるということを英文で全世界に知らしめた

のです。それ以来、世界では「SAMURAI」という言葉は「思いやり」と

同義語になったのです。





ところで、「思いやり」と「優しさ」の違いはご存知でしょうか。

「優」という時は「すぐれている」とも読みます。

つまり、「優しさ」とは知らず知らずの内に誰かと比べてしまっているのです。

誰かと比べて自分より、不幸な人や目下の人に何かしらの施しをすることが

優しさ、分け隔てなく施しをすることを「思いやり」というのです。





仏教の経典では思いやりのことを「慈悲(じひ)の心」と言います。

人が亡くなるとこの世からあの世に行くのですが、

解りやすく例えるならば、この世側の駅に1番線から3番線まで

電車が止まっています。

1番線の電車は極楽浄土直行の特急列車。

2番線の電車は地獄経由極楽浄土行きの急行列車。

3番線の電車は地獄行きの電車。


亡くなると仏教ではこのどれかに乗らなければならないとされています。

ほとんどの人は「地獄経由極楽浄土行き」の電車に乗ることになるのですが、

この世で悪いことした人は地獄行きの電車に乗ることしか出来ません。

では極楽浄土直行の電車に乗れる人というのは生前に「慈悲(じひ)の心」が

あった人だけと言われています。

誰もが極楽浄土に行きたいと願っていたからこそ、「慈悲(じひ)の心」が

「武士道精神」に、そして「思いやり文化」を形成していったのです。




ちなみに「慈悲(じひ)の心」を体現している一番の仏様は

観音菩薩様。俗に言う「観音さま」ですが庶民にとって古来より

信仰の対象になっているのは観音さまにあやかって「極楽浄土」に

行きたいという願いからなのです。




「思いやりの心」は1000年以上続く仏教の教えが大きく起因して

いるのです。





























  

Posted by フューネ三浦 at 08:59 │役立つ雑でない雑学

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2014年01月25日

魚の釣り方・魚の食べ方

私たちが生きていく為には、常に将来のことを考えていなければ

ならないのです。家庭においても、企業においても、地域社会においても、

壮大なレベルにいけば国や地球の将来までも考えることが大切です。

誰もが幸せでありたい、豊かな暮らしをしたいと願うのは必定であり、

少々今が辛くても、将来は明るいほうが絶対に良いのです。

江戸時代の思想家、二宮尊徳が残した言葉で次のような言葉があります。

「今年の衣食は去年の産業にあり。来年の衣食は今年の艱難にあり。」

今年が豊かに衣食に恵まれて生活できるのは去年仕事を頑張ったから

である。来年が衣食に恵まれるのは今、辛い中でもしっかりと努力し、

働くからである。

という意味です。つまり、今の暮らしは過去の自分のご褒美であり、

将来の暮らしは今の頑張りだということ。

言われてみれば納得の教えです。





さて、よく例えに使う例題ですが、お腹を空かして飢え死にしそうな人に

「釣った魚を食べさせる」ことが正しいのか

「魚の釣り方を教える」ことが正しいのかという問いがあります。

今日、今の時を解決するならば「釣った魚を食べさせる」ことが正しいの

でしょうが、将来のことを考えたとき、その人のことを真剣に考えれば

「魚の釣り方を教える」ことが確実に正しいのです。

教育とは「魚の釣り方を教える」ことであり、自然界において親は子に

「釣った魚を食べさせる」ことは自分の居なくなったら子は死ぬことを

意味します。将来を見据えると「魚の釣り方を教える」を教えることが

いかに大切か解ります。

もちろん、会社で上司が部下に教えることも同じ理屈なのですが、

部下を育てられない上司は必ずと言っていいほど、

「釣った魚を食べさせる」ことになっているのです。

運転が未熟だと言って運転をさせず、
上司が運転をしてしまう。

作業が遅いと言って自分でやってしまう。


このようなことを平気でやっている社員を残念ながらフューネ内でも

見かけます。

将来を考えた時、辛い中でもしっかりと努力し働くことを大切にすることが

豊かな未来の入り口なのです。


















  

Posted by フューネ三浦 at 09:00 │役立つ雑でない雑学

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2013年12月27日

初もうでに行っていいの?

この時期に今年お葬式をされたお客様から多く受けるご質問に

「初もうでに行っていいの?」

というご質問があります。

喪中(49日間程度)の間は行ってはいけないと聞いているのだけど実際は

どうなのですかという補足の質問にお答えします。

そもそも、初もうでに行ってはいけないというのは死者を出した家には

「死の穢れ(けがれ)」がついているところから来ています。


ケガレについては

2008年3月8日付ブログ記事「ハレとケ」
http://fune.boo-log.com/e10679.html

2009年7月9日付ブログ記事「清め塩」
http://fune.boo-log.com/e55808.html

をご覧ください。


意外に思う方もいらっしゃると思いますが仏教では死を穢れとは

みなしません。それを証拠にお寺で葬儀を執り行うことも一般的に

行われています。死と向き合うことがお寺だととも言えます。

死の穢れを嫌うのは神道(神社)の考え方なのです。

喪中の間は神社の鳥居をくぐることはご法度です。

ですから、喪中の方の神社への初もうでは控えたほうが良いのです。

しかし、お寺への初もうでは喪中の間の方でも厳密には大丈夫です。




悠久の歴史の中で日本人の心に神様と仏様を一緒に考える価値観が

ありました。これを専門的に神仏習合というのですが、初もうでも

神社もお寺も一緒に考えてしまうようになってしまったのです。

実際に初もうでに行くか行かないかという行動の決定はその人の

信仰心によってまちまちです。

神道の信仰心が無い人に対し死の穢れの話をしても全くおかしな話で

すし、キリスト教・イスラム教徒の外国人に神道の穢れを説明しても

イマイチ理解してくれないものです。

初もうでは一年の始まりです。いつ行くかはお任せするにして

神様・仏様に年の初めのご挨拶をしたいと思うのが日本人なのです。





  

Posted by フューネ三浦 at 09:08 │役立つ雑でない雑学

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2013年12月06日

銀行口座凍結

今から銀行にお金を引き出しに行くから死亡診断書の提出をちょっと

待ってくださいとお客様からよく依頼されます。

人が亡くなると銀行口座は基本的に凍結されて預金の引き出しが

できなくなります。ですから、凍結をされる前にお金を引き出しておこうと

このようなお客様のご依頼を受けることになるのです。

人が亡くなると銀行の口座が凍結されることは多くの方がご存じですが、

一体いつから凍結されるかを知っている方はほとんどいらっしゃいません。

亡くなった瞬間に凍結されると思っていらっしゃる方、

死亡診断書を提出した瞬間に凍結されると思っていらっしゃる方、

その他の理由を述べられる方もいらっしゃいます。

正解は銀行が知った時からです。

なんだと思う方もいらっしゃると思いますが、銀行とて知った時からで

しか対応できません。一般的には地域や会社関係に訃報が出回った時に

口座凍結されることが多いのです。

しかしながら、近年の家族葬の増加で訃報が流れず、葬儀の後に

遺族の申告で口座が凍結されるケースも増えています。

注意して頂きたいのは死亡後、当面の必要経費を引き出すのは

許容範囲ですが多額の現金を引き出すことはあとあと大問題になって

しまいます。




では、どうやって口座凍結を解除できるのでしょうか。

あくまでも一般的な流れとして各金融機関に連絡し、必要書類を確認し、

各所から書類を取り寄せます。

その後、相続人全員で遺産分割協議をして各金融機関へ必要書類を提出

しやっと口座凍結が解除されます。

この間平均3カ月くらいかかりますが、 遺産分割協議で揉めてしまうと

長時間を費やすこともあります。




お客様の中には口座凍結の為、「葬儀代が払えない」と言われる方が

いらっしゃいますが、大丈夫です。

葬儀代の請求書と相続人全員の承認があれば、口座凍結中でも

葬儀代などの必要経費は先に引きだすことが可能です。










  

Posted by フューネ三浦 at 09:02 │役立つ雑でない雑学

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2013年10月03日

続・おもてなし

オリンピック招致の最終プレゼンにて滝川クリステルさんが

手を使い表現した「お・も・て・な・し」

2020年の東京オリンピック決定と同時に一気にブレイクをしました。

「おもてなし」については2012年10月12日付ブログ記事「おもてなし」

でご紹介させて頂きました。ブログの中で


日本人ならではの「相手を思いやる心」

がストレートに入った「おもてなし」は

世界のサービス業の最高級ブランドになり得る


と断言させて頂きましたが、今回のプレゼンもそのことに自信があるから

使用したのでしょう。




私の著書「感動葬儀。心得箇条」156ページの中でも

「おもてなし」について触れています。

葬儀のかたちも、その内容に付随するサービスも、まさにピンからキリまで存在します。そうした中、弊社では一貫して「感動葬儀。」を打ち出しています。
葬儀は感動でなければならない。いえ感動がなければ葬儀ではないとさえ思っています。そのために大事にしているのは、まず第一に「もてなし」です。
茶道に集約されているように、「もてなし」とは、まさに伝統文化そのもの。「もてなす」とは「物をもって為す」ということで、目には見えない心を、物と行動によって相手に伝えようとするものです。





「感動葬儀。」を構成する核心の部分こそ「もてなし」であり、

「お・も・て・な・し」は日本人のアイデンティーが凝縮された

「日本流」歓待なのです。

王様の奴隷という意味が語源の「サービス」や

「客人の保護者」や「歓待」という意味の「ホスピタリティ」とは違う

「おもてなし」は世界共通語になっていく可能性を秘めている

すばらしい言葉です。




  

Posted by フューネ三浦 at 09:36 │役立つ雑でない雑学

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2013年09月05日

孝と悌

孝悌(こうてい)は、儒教における根本的な徳目のひとつです。

「孝」はよく父母に仕えること、「悌」は兄によく仕えることです。



フューネでは「お葬式は最後の親孝行」という

キャッチフレーズで親のお葬式を行うことは親孝行なんだということを

お客様に啓蒙しています。人として生まれた以上、自分の命の元である

親に感謝するのは当たり前であり、ほとんどの人々は何かしら親孝行を

したいと思っています。

しかしながら、親の死が近づくにつれてこれまでに親孝行をしてこなかった

ことを嘆いているお客様にお葬式の事前相談等でしばし出会います。

そのような時に「お葬式は最後の親孝行ですよ」とフューネの

葬祭ディレクターがアドバイスをするとお客様は「間に会った」という

表情をされるのです。

つまり、親孝行とは親の死まですることのできるものなのです。



さて、孝に比べ悌はなかなか出来ていないのが実情です。

お葬式の現場ではよく不仲な兄第に遭遇します。

相続や何かしらの揉め事で不仲になったとは思いますが、不仲になる原因を

たどると大抵の場合順序が守られていないのです。

長男・次男・三男・・・という序列があり、年長者を敬うという観点から

いえば絶対に守らなければならない順序です。しかしながら、現在の憲法が

保証している「平等」という大義を名目に弟たちが「兄によく仕える」という

ことを忘れてしまっているケースがほとんどです。兄弟が仲が悪いと自覚の

ある方は今一度、「悌」」という教えを振りかえるべきです。





まず家庭で守られるべき徳として儒教が提唱してきた「孝悌」について

孟子は、秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親や年長者に

対する親愛・敬愛の心、すなわち「孝悌の心」を忘れない

ことが肝要であると説いています。お葬式を円滑に行うことのできる

家族には必ず「孝悌の心」が備わっているのです。

  

Posted by フューネ三浦 at 09:55 │役立つ雑でない雑学

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2013年08月28日

聞く力

「人間の持つ基本的な5つの能力」とは

読む・聞く・話す・見る・考えるの5つがあります。

これらを磨くことは生きて行く為に必要なスキルの向上に繋がり、

とても大切なことです。

最近、基本的な能力として聞く力が劣ってきているのだとか。

通信手段も電話で長電話するといったことが激減し、代わりにメールでの

やりとりや、ブログ・ツイッターなどのSNSを使用した連絡手段が

増加しています。

これらは「読む力」は向上するかもしれませんが、「聞く力」は間違いなく

衰退します。結果的に人と人とのコミュニケーションが

苦手な人が増えています。





「聞く力」が苦手な人は知らず知らずの間にやってはいけない3つのことを

やってしまいます。

1つ目は「相手の話を途中で遮ってしまう」

2つ目は「相手の話を否定してしまう」

3つ目は「話している相手の顔を見ない」


聞く力を向上するテクニックは様々なものがありますが、

やってはいけない3つのことをやらないようにすれば聞く力は向上します。





話し方教室に行くとカリキュラムの内容は聞き方教室であったというくらい

「聞く」という能力が「話す」という能力向上の為に絶対的に必要です。

葬儀の現場においても全く同様でお客様の話を聞く能力の無い人はお客様に

あったサービスの提案はできません。

もっと言えば、お客様が直接言葉として発しない「心の声」を聞く力が

なければお客様が満足してくれるレベルのサービスにはならないでしょう。

お客様のしぐさやちょっとした目線の移動でさえ、心の声を聞く時には

重要なシグナルなのです。





とかく、生まれ持って携帯電話や電子メールがある若い世代の方々は

特に「聞く力」が弱いと言われますが、上達するには人と人の

直接の会話をするということの場数を踏むしかありません。














  

2013年08月24日

女の財産

最近は書籍の出版も含め、講師として招かれ講義をして誰かに

何かを教えるという機会を大変多く頂くようになりました。

大変栄誉なことだと思うのと同時に私なんかが人に教えるなんて

という自問自答をする日々です。学生時代、人前に出ることは

あまり得意ではなかった私ですが、必要に迫られて気がつけば

人の前で臆せずお話しをすることが出来るようになってしまいました。

もちろん、人に何かを教えるということは自分自身がとても勉強を

しなければなりませんし、知識だけはダメで経験も絶対に必要です。

先日、ふと私が初めて講師として招かれて行った先はどこだったか

と頭とよぎり、そういえばある呉服店の社員研修であったことを

思い出しました。若干25歳の時、とても緊張したことを思いだしました。

テーマは「家紋と喪服」

ということで、駆け出しの頃必死で覚えた家紋のことと葬儀における

喪服について呉服店の社員の皆さまにいお話しをしました。





正直、今の葬儀業界では「家紋」の知識など全く必要がなくても十分に

通用する時代です。実際にフューネの社員教育でも家紋のことは

ほとんど教えてはいないのが実情です。

しかし、家紋も知れば知るほど面白く、自分のご先祖様や歴史を紐解く

中でとても重要な役割を果たしていると思います。



くわしくは「感動葬儀。」ブログでも過去3回書いています。
下記のリンクからご覧ください。

2009/07/03
家紋帳
 
2009/05/22
六文銭
 
2008/07/10
家紋










さて、喪服の家紋の面白いことはその家の家紋ではなく、嫁いできた

嫁の実家の家紋が入っています。お葬式の時、喪主の奥様の喪服の紋を

見れば奥様の旧姓さえも解ってしまうこともあるのです。

専門的には「女紋(おんなもん)」と言いますが、手鏡や鏡台、

箪笥をはじめとする花嫁道具にもことごとく入っていました。

現代は花嫁道具なんて言葉自体も死語に近いような婚礼がほとんどで

仮に実家から家具を持ってきたとしても、わざわざ家紋を入れる方は

まずいっらしゃいません。しかし、婚礼時に持参する着物(喪服)には

現代でもちゃんと家紋(女紋)が残っています。





では実家の家紋が入るのはなぜなのか。

それは「妻の財産である」ということを明確にするためです。

江戸時代は万一、夫が事業で失敗したとしても、妻の財産は

差し押さえからのがれることができました。

また、江戸時代は非常に離婚が多かったのですが、

家紋が入っているということで「これは私の財産です」と、

さっさと自分のものを持って実家へ帰ればよかったのです。

また、女紋の入った家具を男が売るということをすると

世間の社会的信用を失うといったこともあったそうです。

喪服に刻まれている女紋は「女の財産」だというアピールなのです。






  

Posted by フューネ三浦 at 09:00 │役立つ雑でない雑学

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2013年08月12日

経世済民

先日行われた参議院選挙で圧勝した自民党は参議院でのねじれ現象を

解消しました。安倍内閣の支持率も発足以来、高い支持率を保っている

のはいわゆる「アベノミクス」といわれる経済政策が国民に認められて

いるからでしょう。やはり、景気を良くして生活を安定させることが

一番の施策なのです。ただ、忘れてならないのは私たちの命を守る

国防施策があってからこその景気対策です。安心・安全が保証されない

限り、経済の安定は無用です。



さて、経済という言葉は「経世済民(けいせいさいみん)」

という言葉の略語です。言葉の意味は

「世をおさめて民を救う」

という意味であり、国民を救う数々の施策こそ真の経済だと言えるのです。





アベノミクスの反動として今、電気料金やガソリンをはじめ、食料品も

含めて物価が上がっています。物価が上がっていくならば、それ以上に

給与が上がって行くならば何も問題はないのですが、一部の方を除いて

果たして給与水準が上がっていくのかという心配があります。

本当に「民を救う」施策でなければ本物の経済ではないのです。




経済誌などで葬儀業界は「景気に左右されない業界」

とよく紹介されていますが、葬儀社を経営する私からみれば絶対に間違って

いると思います。フューネの歴史の中でも、一番利幅の多い時代はバブルの

頃でしたし、景気が悪ければやはり客単価は伸びません。

ただ、他の業種を比べて恵まれているのは景気が悪くなったからといって

葬儀件数が急激に減少する訳でありません。しかしながら、逆に景気が

良くなったといっても急激に葬儀件数が増えるものではありません。

つまり良い意味でも悪い意味でも葬儀件数は「安定」している

のです。

ですから、景気が良くなれば儲かるし、悪ければ儲からないことは

事実であり、他の業種を全く同条件なのです。

つまり、景気は良くなって欲しいと願うのは一緒なのです。








  

Posted by フューネ三浦 at 09:06 │役立つ雑でない雑学

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2013年07月01日

死亡率100%

私の著書「感動葬儀。心得箇条」の中に書かせて頂いて

いますが、葬儀の持つ4つの役割として

「社会的処置」「遺体の処置」「霊魂の処理」「グリーフワーク」

に加え「死を認める」という項目を加え5つの役割があると

提唱しています。

葬儀の持つ4つの役割については2010年8月14日付ブログ記事

「葬儀の持つ4つの役割」をご覧ください。




「人は必ず死ぬ」

考えてみれば当たり前の命題ですが、私たちが元気なときは

このことを人は忘れてしまいます。

というか、考えたくもないのでしょう。

言い変えれば、人間は「死亡率100%」の動物です。

元気な私たちが、このことを改めて再認識する場としてお葬式があるのです。

そういった意味ではお葬式に参列することはとても意義があり、気力・体力が

みなぎっており、日々忙しい毎日を送っている私たちが自身の「死」について

立ち止まって考えるとても良い機会なのです。



人は必ず死ぬという宿命があるからこそ、今日の一会は生涯に二度とない

会だと思い、主客ともに親切実意をもって交わることが肝要であるという

茶道の心得を教えた「一期一会」という言葉が生まれるのであり、

時間が有限であるからこそ、一日一日の一瞬を大切にできるのです。



「人は必ず死ぬ」

という当たり前のことをいつも忘れないで生きる人とそうでない人の

人生の豊かさの差は一生という時間の中で大きな差となることを

いつもお葬式が教えてくれているのです。

  

Posted by フューネ三浦 at 09:14 │役立つ雑でない雑学

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2013年06月29日

繰り上げ初七日

百科事典によると初七日とは死亡後7日目、またその日の供養行事。

「しょなのか」ともいう。死の忌みは7日ごとに明けていくものと

考えられていたから、初七日は最初の厳重な忌みの

明ける機会である。
と解説しています。

死者を供養する法要の中で、最初に行うという意味で非常に重要な

意味を持った法要なのですが、現代では実際に死亡後7日目に行って

いる方はほとんどいらっしゃいません。

火葬場から帰ってきてから、すぐに行ってしまうケースが今や一般的に

なっています。このようになった理由は親族・知人の方が近隣にいなくて

遠方に居住する人が多くなったからと言われています。

初七日はお亡くなりなられて7日後です。お客様がよく勘違いされている

のはお葬式の日から7日後だと思っている方がいらっしゃるのですが、

それは間違いです。ですから、お葬式が終わって2日後・3日後が

初七日法要の開催日となることが最も多く、遠方の方にとっては

一旦、帰ってもまた来なければならなくなります。

これは経済的にも、時間的にも不効率であり、こうした事情から、

大事な法要なのですが、お葬式当日に繰り上げて行うのが一般化して

本来の初七日の意味がわからない人々が増えていったのです。




最近では「式中初七日」という新しいやり方も増えてきました。

お葬式と同じ日に行う初七日がさらに繰り上がって、

お葬式の読経の中で一緒にやってしまうという荒業なのです。

ここまでくると、初七日の意味がまったく形骸化してしまうのですが

このやり方が一部のお客様から支持されるようになってきました。

支持される一番の理由は、「効率」です。

「初七日をおこなうのが面倒」

「宗教家のお礼を安くできる」

「楽だから」


そのような理由が「式中初七日」を選択されるお客様の理由です。




正直、今は何でもありの時代ですから、お客様が望まれるのなら

叶えてあげるのがフューネの役割だと思っています。

しかし、本来の初七日の意味を理解した上での選択なら文句は

言いません。「面倒くさいからやらない」という選択さえも選べる時代ですが、

自分というものをしっかりと持っていないと同時に何か大切なものを

失ってしまう危険性を持ち合せているのです。



  

Posted by フューネ三浦 at 09:00 │役立つ雑でない雑学

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2013年06月25日

地図を書く

初めて行くところには、目的地に行くまでに地図が欠かせません。

お客様のご自宅やお取引先へ訪問する時は住宅地図を確認しながら

必要に応じてコピーをしそれなりの準備をして伺いました。

しかしながら、最近ではカーナビゲーションやスマートフォンの

アプリに行きたいところを入力するだけで何も下調べをすることなく

目的地まで連れってくれます。

本当に便利になりました。




私が駆け出しのころ、修行先の会社では

「地図をコピーをすることが禁止」

という掟のある会社でした。

行きたい目的地までの経路を地図を使って調べ、自分自身で地図を

書いてそれを頼りに目的地に向かいました。

当初、該当箇所の地図をコピーをすれば、下調べに大幅に時間短縮

できる訳ですから、「なんて無駄なこと」なんて思いました。

単にコピー代を節約の為にこんな非効率なことをしているだと思って

いたからです。

地図を書き続けて一年くらい経った頃、その考え方は間違っていることに

気づきました。

その頃になると市内のほとんどの地図が頭にインプットされており、

市内どこでも地図なしで走ることが出来るようになっていたのです。

おかげさまで今でもそれは非常に役に立っています。

それからは「目標物から3件右隣」といった簡単なメモだけで

目的地に行くことが出来、ほんの一秒地図を見ただけの下調べで

目的地まで行けるという能力が私に備わりました。




地図を書くということは、目的地までに目標となる目標物をいかに多く

見つけてそれを記載するということです。

目標物をインプットすることができれば、出発地から地図を書く必要性は全く

無くなり、目標物から地図を書くことで目的地までたどり着くのです。

つまり、目標物を如何にたくさん見つけることができるかがすべてです。

目標物は大きな建物や、コンビニなどがわかりやすいのですが、

個人のお宅に行くにはそれだけでは不十分です。

地図を必要としない人になる一番の上達方法は

「交差点の名前を覚える」ことです。

これを目標物出来れば地図なしで何処へでもいけるようになります。

そして、個人の自宅に行くには、豪邸やアパート・マンション・ゴミステーション、

小さな公園を覚えることが大事です。



便利な世の中になり、地図を書くということはほとんどしないと思いますが、

苦労して書き続けることによって地図が不要になる。

やはり、究極はデジタル力よりアナログ力のほうが勝っているのです。













  

Posted by フューネ三浦 at 09:22 │役立つ雑でない雑学

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2013年06月17日

変体仮名

最近、ほとんど使うことが無くなった仮名文字で

変体仮名(へんたいがな)と総称される文字があります。

下の図は変体仮名の代表的な文字の一覧ですが、私は一文字一文字を

を表を見て解読しなければ全くわからない領域です。



平仮名の字体のうち、1900年(明治33年)の小学校令施行規則改正以降の

学校教育で用いられていないものを変体仮名と呼んでいますが、

現代では看板や書道など限定的な場面でしか使われていないのが実情です。

しかしながら、葬儀社はこの変体仮名の一覧表をしばし仕事で使うことが

あります。それは人の名前に使われている場合があるのです。

現代では戸籍上の人名には変体仮名を使うことができませんが

1948年(昭和23年)の戸籍法施行までは変体仮名が戸籍上の人名として

使うことができたのです。

つまり、1948年以前に生まれた方、特に女性は本名が変体仮名である方が

結構多いのです。

この変体仮名が含まれている方がお亡くなりになると、お葬式に使う看板類や

会葬礼状をはじめとする印刷物に使用するのです。

一般的なコンピューターのフォントに変体仮名が収録されていないので、

このような変体仮名を使う時は、一文字づつ作るという作業が発生することが

あります。変体仮名に対応するには結構な苦労があるのです。

このようにして変体仮名が本名の方のお葬式にも対応しているのです。




当然のことながら、役所に提出する死亡診断書も変体仮名で提出します。

一覧表を見ながらお客様の代筆をするときは何度も別の紙に書いて

練習をして書いたことは良き思い出です。



  

Posted by フューネ三浦 at 09:00 │役立つ雑でない雑学

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2013年04月30日

遷宮

いよいよ、5月10日に縁結びの神様として知られる出雲大社で

大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)が修造が完了した御本殿に

お還りになる「本殿遷座祭」が営まれます。

神様の引っ越しのことを遷宮といいいますが、今年は伊勢神宮と

出雲大社の両方が遷宮をする「当たり年」と言われています。

日本という国を作ったと言われているそれぞれの神様が同時に

引っ越しをされる訳ですから。何ともめでたい年なのです。




出雲大社の遷宮は今回で4回目。およそ60年に一回行うものと

言われています。これに対し伊勢神宮の式年遷宮は20年に一度です。

ちなみに「式年」とは「定期的」という意味です。ですから式年遷宮とは

定期的にあらかじめ決められた年数で神様が引っ越しをするという意味

になります。

実は出雲大社の遷宮は式年遷宮ではないのです。

それは、出雲大社においては概ね60~70年ごとの周期で神社の正殿が

建て替えられてきましたが、その建て替えが必ずしも定期的では

ないからなのです。

ですから、あくまで次は60年後だろうということで、伊勢神宮と出雲大社の

両方が揃って遷宮を迎える年というのはとても珍しいことであり、もしかしたら

このブログを読んで頂いている皆さまにとって生きている間にこのような年に

あたるのは最初で最後のことになるでしょう。




伊勢神宮のご祭神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)ら

高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国(日本)を統治すべきは、

天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」として、天から天照大御神の子孫が

降りてきた時にそれまで日本を統治していた出雲大社のご祭神である

大国主大神が自身の宮殿建設と引き換えに国を譲りました。

これが「国譲り」と呼ばれる神話であり、この時約束をして

作って頂いた宮殿が出雲大社なのです。

大国主神はその後すぐに自決してこの世を去りました。

そして、幽冥界(あの世)の主、主催者となったのです。

神話では「伊勢は日が昇る国であり日本の昼を治める国」といわれ、

「出雲は日が沈む国であり日本の夜を治める国」と言われています。

日本地図を見ると確かに伊勢の方角から日が昇り、出雲の方角に

日が沈んでいきます。

この世とあの世を守る神様が私たちを守ってくれるという考え方が

私たちが伊勢神宮と出雲大社の両方を特に大事にしている

理由なのです。

  

Posted by フューネ三浦 at 09:07 │役立つ雑でない雑学

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