2017年08月13日

葬儀後に故人のお金を銀行からおろすこと

ご承知の方も多いはずですが、基本的に人が亡くなると銀行の口座は

凍結され、自由に預金が引き出せなくなります。

フューネのお客様にアドバイスしているのは当面の資金として必要で

あれば、少しずつ預金を下ろしておくべきということですが、実際は

人の亡くなるのはどんな時も突然であり、実際にお亡くなりになって

すぐにATMに走っていかれるお客様もいらっしゃいます。

厳密には金融機関も亡くなったことを知った時からしか故人の

口座は凍結されませんから、お亡くなりになられてから、口座が

凍結されるまでの期間は法律的には非常にグレーなゾーンです。

実際に亡くなってから慌てて口座から預金を引き出しても相続の観点

から言えば、遡って追跡をさせるので何も意味はないのです。




葬儀後に故人のお金を銀行からおろすには相続人全員が同意した

遺産分割協議書が必要ですが、葬儀代等の支払いなどで急ぎで必要な

経費については証明書があれば、先に預金の一部を引き出すことは

大抵の金融機関が応じてくれます。

各金融機関によって対応は少しずつ違うので、まずは必要な書類を

相談してみることがとても大切です。



昨今は個人の財産をしっかりと保護するという風潮が強く

なっています。例え親・兄弟の財産であっても自由に

引き出すことが難しくなっているのが現状であり、

まして相続が絡むお金の流れには非常に慎重になって

います。

出来ることならば、「終活」のなかで早めの対策を心がける

ことをお勧めします。
  

2017年05月10日

戒名と俗名

日本人の宗教感の中で、死後の世界で生きていく為に戒名をつける

という習慣があります。

現状では多くの人はお寺様にお願いして何らかの戒名を頂いて

いるのが、実際のところです。

しかしながら、「本当に戒名は必要?」

と疑問を抱く人が増えていることも事実なのです。

端的に言えば戒名を頂くということは「仏教徒になる」ということ

なのですが、その意味合いも解らずに戒名を頂いている方々に

とって「戒名は必要?」という疑問に繋がってしまう訳なのです。





あの世が本当にあるのかと疑念を抱いている方々にとって

「戒名は必要なのか?」

という疑問は当然のことのように思います。

宗教家の説明が足りない・宗教家の話を聞かない・宗教家を信じて

いない方々はいわば、戒名のことがよくわからない状況で要る・

要らないの判断をしてしまっているのです。




一方、俗名(ぞくみょう)とは生前名乗っていた名前のことであり、

通常お亡くなりなられると位牌にはフルネームで記載をします。

お寺様に葬儀を依頼する時に、あえて戒名を付けずに「俗名」で

お葬式をされるケースは年々増えています。




言ってみれば、戒名をつけるかどうかは皆さまの自由です。

本来、仏教徒である人が頂く戒名ですが、とりあえず葬式は

お寺様に読経をあげていただこうと思っている方々が圧倒的に

多い今日において、仏教徒であるという意識の無い方に

「戒名は絶対に必要」と押し付けることは戒名の本質からも

外れているのです。











  

Posted by フューネ三浦 at 08:33 │役立つ雑でない雑学

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2017年03月11日

須弥山

お仏壇の中には大抵の場合「段」があります。2段、3段となっている

ものがありますが、なぜ「段」があるのでしょうか。

単なる中に飾る仏具の見栄えの為ではないのです。

ではいったい何を模しているのでしょうか。

実は、「山」を模してつくられているのです。

その山の名前は「須弥山(しゅみせん)」といいます。

須弥山は、古代インドの世界観の中で中心にそびえる山であり

人間が計り知れないようなとてつもなく大きな山であるのです。

須弥山の上空には、仏様たちがいます。その天上も二十五段階に

なっていて、それぞれの階層には仏さまとたくさんの菩薩さまが

いる宮殿があるそうです。




お葬式で使う祭壇の「段」も須弥山を表しています。

祭壇は仏教的な意味合いが多く含まれているパーツが多い

のですが、いつしか、葬儀を取り扱っている葬儀社の社員すら、

その意味を知らないレベル社員が増えているのです。

プロですらこのレベルですから、お客様が仏壇や祭壇の「段」に

深い意味を求めてこないことも事実です。

もちろん、本来の意味よりも供養する「心」のほうが大事であり、

意味合いの重要性はそれほどでないと思いますが、

「段」の一つに仏教の世界観が秘めていることを知っているだけで、

見方が変わるのです。

  

Posted by フューネ三浦 at 08:43 │役立つ雑でない雑学

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2016年08月16日

修多羅



上の写真は修多羅(しゅたら)といいお坊さんが袈裟(けさ)の上に

垂らす、装飾用の組紐(くみひも)です。

修多羅は袈裟と袈裟をつなぐ重要な紐であり、この紐が無いと袈裟を

着るのにしまりが無くなってしまい「だらしない」のです。

修多羅はサンスクリット語では「スートラ」といい、「スートラ」が

なまって「しだら」になります。これに否定をつけると「だらしない」

という言葉が生まれました。

「だらしない」という言葉は仏教用語から派生しているのです。




サンスクリット語で「スートラ」と言う修多羅は「お経」そのものを

表しています。私たちが修多羅に手を合わせるのはお経をそのものに

敬意を表していることと同じなのです。

本来の「スートラ」という言葉の意味は、織物の縦糸という意味で、

過去・現在・未来へと縦に貫いている不変なものを表わして

いるのです。

縦の糸はどんな時代になっても変わらないものを表現し、横糸は

常に移り変わって行くものやあてにならないもの、つまり私たちの

生活を表していると言われています。

修多羅が縦の糸で構成されているのは、変わらない命の伝承や

お経に書かれている教義を表現しています。

「お経」というのは、永遠に変わらぬ普遍的な真理を表わす言葉

なのですから。




昔のお葬式ではご年配の方が修多羅に手を合わせる光景がよく

見られましたが、最近では本当にこのような光景を見ることが無く

なりました。

修多羅の意味の伝承がうまくいっていないことやそもそも、

修多羅を有り難いと思わなくなった人々が増えているからでしょう。

意味を知ることでお葬式もまた、一つ楽しみが増えるのですが

いかがでしょうか。


  

Posted by フューネ三浦 at 08:15 │役立つ雑でない雑学

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2016年05月22日

愛別離苦

愛別離苦(あいべつりく)とは愛する人と別れなければならない

苦しみのことです。

誰もがこの苦しみから逃れたいと思うからこそ、昔から死というものに

対し忌み嫌うという習慣が生まれています。

結果的に「葬儀」という言葉が重いのは愛する人との別れを示唆して

いるという側面を否定できないものだからでしょう。




生きていくことは様々な苦難を乗り超えていくことなのですが、

生きているということは誰かを愛することに繋がります。

単に恋人だけでなく、子供、家族、同僚、友人そして隣人までも。




最近のお葬式を見ていると愛するべき存在との別れが充分に出来て

いないように感じます。

人間関係の中で、愛するべき範囲が狭くなっているのでしょうか。

いやそうではないと思います。

今も昔も人が人である限り、人によって多少こそあっても、愛する人の

範囲は変わっていないはずです。




愛する家族の別れだから、義理を排除したいから「家族葬で」

というニーズは現代において主流になりつつあります。

葬儀社の社長として、家族葬を今更否定するつもりは毛頭ない

のですが、本来の家族葬とはお亡くなりになられた方中心に

「愛」というキーワードで結ばれた人々の集合体でなければならない

と思うのです。



葬儀社の仕事というのは言ってみれば「愛別離苦」という苦しみに

陥っている人々の心を少しでも早く癒してあげることです。

専門的にはグリーフケアという言葉で集約をされますが、

葬儀においてそもそも、お亡くなりになられた方が愛していた人が

集まって頂けなければ、解決することが難しいものかもしれません。
















  

Posted by フューネ三浦 at 08:40 │役立つ雑でない雑学

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2016年03月05日

鬼のパンツはなぜトラ柄なのか。

「鬼のパンツは いいパンツ つよいぞ つよいぞ♪」

幼稚園に通う我が家の長男坊が時折、歌う「鬼のパンツ」という

歌はユーモラスで耳に残るフレーズで、微笑ましいものです。

歌詞の意味は丈夫な鬼のパンツをみんなで履こうと繰り返し

呼びかけるものですが、どうもこの歌はイタリアの曲であり、

原曲とはまったく関係のない歌詞が日本でついているそうです。





ところで、なぜ鬼のパンツは決まって「トラ柄なのでしょうか?」

今までパンツの柄まで意識して見てこなかった方もいらっしゃる

でしょうが、よく見て頂ければパンツは決まってトラ柄です。

それは鬼の住処かである方角に由来しています。



鬼の住む方角を鬼門といい。北東のことを指します。

上の表のとおり、北東は別の表現の仕方で「うしとら」の方角のことで

なのです。ですから鬼のキャラクターには「丑」と「寅」が表現されて

いるのです。トラはパンツ柄で。

では「ウシ」はいうと鬼のツノは「ウシ」のツノなのです。



鬼という語源をたどると「隠(おん)」という言葉の言い換え

であり、「オン」が変化して「オニ」に変わりました。

隠とは隠れるという意味でつまりは死者のことなのです。

昔の人は死者に対するケガレ・畏敬や恐怖心から鬼という

キャラクターをつくりあげたのです。




2月3日の節分の豆まきは家の中から邪気を追い払う日本の伝統行事

ですが、節分の時にかぶる鬼のお面も可愛らしいキャラクターのもの

が増え、「鬼のパンツ」の歌も幼稚園児が口ずさむ昨今では鬼の持つ

本来の恐怖は全く表現されていないのが実情です。

「鬼のパンツ」の歌に日本語の歌詞をつけた人は鬼の本来の意味合いを

理解して付けたとは到底思えませんが、それはそれで良かったこと

なのでしょう。







  

Posted by フューネ三浦 at 08:39 │役立つ雑でない雑学

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2016年01月21日

「いただきます」と「ごちそうさま」の間で

食事のあいさつと言えば、

「いただきます」「ごちそうさま」でしょう。

どちらの言葉も意味を知って使えば大変素晴らしい言葉なのです。

まずは「いただきます」 から

「いただきます」とは、「私の命のために動植物の命を頂きます」の

意味からです。人が生きていく為には動物に限らず、草や木の

命さえも「いただくこと」が必定です。

私たちの生きていく代償としていのちを頂くことの意義を忘れない為の

「いただきます」なのです。

次に「ごちそうさま」ですが「ご馳走様」は「馳走になりました」の

ことで「馳」、「走」という漢字はともに「はしる」の意味です。

昔はお客様を迎えるのに走り回って獲物をとってきてもてなしました。

このような行為に「心からありがとう」という感謝の気持ちを最大限

表した言葉です。



以前にこのブログでもご紹介しましたが、日本人は「食」に想いを

込めることがとても上手な民族であり、奈良時代に仏教が伝来した時

から寺院では修行僧が食について勉強するお堂が「食堂(じきどう)」で

あり、今日の食堂の語源でもあります。

お葬式においても食に様々な意味があり、そもそも食べることで

「供養」としました。

今でも故人と共にする最後の食事という意味の食事もありますし、

忌明けまでの生ものを食べてはいけないという殺生の心得などが

あるのです。



冠婚葬祭という非日常の時(ハレ)にしか食べられない寿司やお赤飯、

お餅といった食事も現代の日常の代表格であるコンビニに普通に

売っているのが当たり前という現状では食の教育というものは本当に

難しいものです。

加えて食材には本来「旬」と呼ばれる食べ頃があるのですが、これも

一年中食べられる現状の中で若い世代に「旬」ということさえ、教える

ことは難しいものです。



※関連記事 2015年3月23日付ブログ記事「食べるという供養」
http://fune.boo-log.com/e309130.html


お葬式と食についてはこれまでもブログに書いてきましたが、葬儀で

供される一つ一つの食事には意味があり、それを頂く側の作法もあり、

食も儀式となっています。

しかしながら、最近では食事そのものが空腹を満たすだけの行為に

なってしまっているのも事実であり、食からの学びを若い世代に

伝えることができていないのが実情です。



そのような現状であるのならば、せめても「いただきます」と

「ごちそうさま」の意味を伝えることだけでも現代の葬儀社として

お客様に伝えることが精一杯の文化伝承の役目なのです。





  

Posted by フューネ三浦 at 08:29 │役立つ雑でない雑学

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2015年12月11日

諸行無常

平家物語の冒頭の文句。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、

盛者必衰の理をあらはす。」

とはすべてのものは常に変化し、同じところにとどまることはない

という世の中の真理をうまく表現しています。

「諸行無常」

という言葉は仏教用語であり、仏教の思想にある根本的なもので、

あらゆるものは一瞬の間にも変化をくり返しているということを

私たちに教えてくれています。




人間とは元来保守的な生き物であり、変化を好む人はあまりいませんが

あらゆるものは変化するという真実を受け入れなければ

ならないのです。

人が「死」に直面した時こそ、有るものが無になることを最も理解する

ことが出来る場面であり、お葬式での仏教での教義では「諸行無常」の

ことを教育する最上の学び舎と昔からなっているのです。

どんな時代になろうともこの世にある一切のものは常に移り変わり、

不変のものはないということを理解することが「生」に対する感謝にも

繋がっていくのです。人生のはかなさを知ることが出来るのも

お葬式であるし、変わっていくこと大切さを知るのもお葬式なのです。





現代の世の中は「はかなさ」を語ることのできないくらいめまぐるしく

世の中が変化をしています。ほんの一年前に流行していた芸人さんの

ギャグさえも忘れられるという現実であるし、パソコンの画面が

切り替わることにたった一秒も待たされるとイラッとしてしまう

現代人。日々の変化に本質さえも見失っている人が多いことは

残念なことです。

一見変わっていないように見えるものは見えないところで

「変わらない為に変わっている」のです。

変わっていく世の中に対応するには毎月のお給料さえも

変わっていくという危機感を持たなければ、最早世の中で

対応できないスピードなのです。
  

Posted by フューネ三浦 at 08:35 │役立つ雑でない雑学

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2015年12月01日

厭離穢土・欣求浄土

今年、徳川家康公徳川家康公がお亡くなりなられてから400年目という

節目の年です。徳川家康が生まれた岡崎市をはじめ、ゆかりのある

浜松市や静岡市も「家康公四百年祭」と称して各種行事を

開催していますが、徳川家康のご先祖発祥の地である豊田市も

商工会議所が中心になって官民一体で「家康公四百年祭」の

各種行事を開催しています。

徳川家康の旗印はご存じ葵のご紋ですが、馬印は

厭離穢土・欣求浄土 おんりえど・ごんぐじょうど」

という言葉を用いていました。

これは桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へ

と逃げ隠れた時、これからの行く末を悲観した家康は松平家の墓前で

自害を試みるが、13代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説き、

切腹を思いとどまらせたと言われています。

言葉の意味は戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをして

いるから、国土が穢れきっている。

その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、

必ず仏の加護を得て事を成すということです。




徳川家康が馬印に使ったこの言葉は歴史上でも大変有名に

なりましたが、そもそも仏教用語であり、浄土教の用語なのです。

この娑婆世界を「穢れた国土」として、それを厭い離れるという意味

であり、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、

そこへの往生を切望するという意味です。

穢れたこの世からきれいなあの世に行きたいという極楽浄土への

憧れを促す言葉であり、多くの人が自分の死後の平安を願って

浄土教の教えに共感をしたのです。




このことが書いてある書物が源信というお坊さんが書いた

『往生要集』(985年)という書物です。

往生要集という書物は仏教においてとても重要な書物です。

なぜならば、あの世への行き方が明文化された唯一の書物であり、

阿弥陀如来様が支配する浄土にいくには

「南無阿弥陀仏」と唱えること

と言う基本理念を持った浄土宗、そしてさらに進化した浄土真宗

という宗派が生まれて行ったのです。


死の向こうにある世界観が各種宗教であると行っても過言ではない

くらい死後の世界観を表現するのはとても大切なことであり、

理想を求めることが前向きに生きることの活力に繋がっていくのです。


  

2015年11月02日

ありがとうの心

誰かに「感謝」をする時は「ありがとう」という言葉が

最も適切です。

特にお客様に対しては「ありがとう」といい言葉は常套句であり、

常套句であるからこそ、言葉に心がこもっているかどうかが言って

みれば差別化であり、間違っても一部のコンビニの店員さんのような

マニュアルに支配されただけの心の無い「ありがとう」はあっては

ならないのです。



20年以上前の世の中の常識では葬儀屋さんが「ありがとう」という

言葉を使うのは不適切ではないかという批判を受けることが

ありました。理由は商売上、「死を待っているのに」ありがとうとは

なんだということです。葬儀社の関係者にとって大変な屈辱的な

お客様の批判でした。

私たちはお客様の死を待っている訳ではなく、お客様のお困りの時に

救いの手の差し伸べることが出来る機会を作って頂きありがとうと

いうことですし、お亡くなりになられた方がいたからこそ、生まれた

お客様との出会いにありがとうということでした。私たちはそれを

「仏縁」という言葉で呼んでいます。

一部の批判的なご意見にもめげず「ありがとう」という言葉を

使い続けることによって今では葬儀社や葬儀会館にお越しに

なられたお客様に「ありがとう」と声をかけても誰も普通のことと

して捉えています。




「いらっしゃいませ」という言葉も「ありがとう」と同様でした。

私たちにとって葬儀会館にお越しになるお客様はお客様であり、

お客様に歓迎の意志を表示する最も適切な言葉は「いっらしゃいませ」

なのです。当初「いらっしゃませ」という言葉に違和感を感じていた

お客さまも最近ではほとんどいなくなりました。




「ありがとう」の語源を辿ると漢字では「有難う」であり、

苦難・困難・災難などのいくつもの「難」が有ること

という漢字の意味です。

難があることが有りがたしという言葉の意味が転じて

日常生活を当たり前こと捉えず、「滅多にないこと」

として感謝する心こそが「ありがとう」の心なのです。

「ありがとう」という言葉は私たちがあたりまえをあたりまえとして

思わないようにするための戒めの言葉あり、「戒め」という言葉の

意味を忘れた形だけのありがとうという言葉を発した時、

新たな苦難の始まりでもあるのです。




フューネではお棺の蓋を閉める最後の最後のお別れの時の言葉は

「ありがとう」と言ってお別れをして頂くようにお客様にお伝え

しています。死は今までお亡くなりの方が生きていたことが

あたりまえであったことがあたりまえでなかったと気づく瞬間であり、

だからこそ、心から言える「ありがとう」という言葉がこの世での

最期のお別れにはもっとも適切な言葉であると断言できるのです。
















  

Posted by フューネ三浦 at 08:26 │役立つ雑でない雑学

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2015年09月07日

観音さま



上の写真はフューネ本社の特別応接室に飾られている絵画です。

観音さまです。なぜこれが飾ってあるかというとそれは私が一番好きな

仏さまだからです。

「観音さま」は正しくは「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)

とよばれ日本で最も馴染みのある仏さまです。 観世音とは

「心で自由自在に世の中の音を観る仏」といわれています。

観音さまが多くの日本人にとって信仰される理由の根本に

菩薩の心を表す「上求菩提・下化衆生

(じょうぐぼだい・げげしゅじょう)
という精神があるのです。

上求菩提とは上を目指して悟りを求めること。

すなわち、自分自身が一生懸命頑張る姿です。

下化衆生とはこの迷いの世界にあって,真理をみずに惑い苦しむ

生きとし生けるものを救済することなのです。

観音さまにおすがりすれば、助けてくれるという観音信仰は下化衆生の

精神に基づいているのです。


菩薩とは仏教において一般的に成仏を求める修行者のことであり、

悟りを開いた人という意味の如来になろうとする前の状態です。

菩薩は観音さまだけでなく、弥勒菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩、

地蔵菩薩
などがありますが、観音さまに人気あるのは阿弥陀さま

の一番弟子であるからなのです。つまり、「上求菩提・下化衆生」の

一番の実践者であることも事実です。

さらに人気なのはその容姿にも理由の一つです。

母性的なイメージがある仏さまであり、母性を感じさせてくれる母の

温かさを感じます。しかし、観音さまは女性か?と言えば

答えはノーです。

本来は男性であるのですが、観音は女性的な顔立ちの為に

女性として見る場合が多い仏さまであり、心女体仏、男女一体仏と

とも言われ 男女両具、すなわち中性の仏さまなのです。

  

Posted by フューネ三浦 at 08:00 │役立つ雑でない雑学

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2015年08月14日

戦後70年とお葬式

戦後70年の節目の今年は改めて「戦争とは?」「平和とは?」

ということを考えさせられる企画がメディアを通じて行われています。

同時に国会では安保法案についての審議は大揺れであり、法案が

通ることでまた悲惨な戦争に巻き込まれるのではないかという

国民の疑心が大きなうねりとなっています。憲法の解釈上で行われて

いる専守防衛の考え方は正しいと思いますが、約70年前にはなかった

大陸間弾道ミサイルなどの現代の兵器の前ではやられたら国が一瞬で

滅んでしまうほどの威力の中で、自分自身が自ら守ることの必要性は

あるのでしょう。難しい問題だとは思いますが、

「平和」はタダであるという考え方だけは間違った解釈だと

思います。



戦時中に日本国民が払った大きな犠牲の上で成り立っている現代の

平和は金銭的価値ではなかなか支払うことは出来ないのでないのでは

ないでしょうか。それでもその苦労に報いる為に支払った退役軍人に

対する恩給の仕組みはやがて公的な年金制度になり、今はその制度すら

疲労しています。戦後70年とは戦後間もなくの頃の時代背景とは全く

変わっているのに憲法を含めてその頃の制度が何も変わらないことに

諸問題があるのです。




戦時中のお葬式は遺族の方にとって大変心残りのものでした。

極端に物資が不足する中、大切な方を失っても満足に弔いが出来な

かったのです。お棺すら手に入らなくて、ご遺体に油を直接撒いて

野焼きで火葬したり、仏壇はミカン箱のようなダンボールで代用

したりという現実でした。それでもまだ供養をされた方はまだ良い

ほうで、身元不明者や路上で野垂れ死なども多数いた現状です。

戦後、満足に供養できなかったという多くの国民の不満が

「祭壇は立派に」「町内・友人・知人多く参列して貰う」

「お棺は立派に」「食事は豪華に」「お寺様をたくさん呼ぶ」


というニーズが生まれ、戦後復興・高度成長期に葬儀は派手になって

いったのでした。

その流れの中で昭和のバブル経済で日本のお葬式の文化はピークに

達し、日本各地でお金をかけた葬儀が行われていました。

現代の大手と呼ばれる葬儀社は少なからずこの時代の恩恵を受け、

その原資で勢力を拡大していったのも事実なのです。

言ってみれば、戦後の葬儀文化の隆盛は戦時中の供養の出来なかった

ことの不満の裏返しなのです。



戦争を知らない世代ですら、還暦を迎え、70歳近くになった現代の

喪主たちは当然、戦中の供養に対する不満など抱いている訳では

ありません。不満がない人にとって葬儀を必要以上に華美にする

必要性は全く感じないのでしょう。結果的に現代の葬儀のニーズが

「質素に」「集団ではなく個で」という流れになっているのは一言で

言えば現代の世情なのです。




これまでのお葬式の流れですら、戦争とは無関係ではありません

でした。平和の時代が続くと供養すら質素に、そして供養出来ないと

いうことが考えられなくなるのです。但し、東日本大震災の時に

多くの被災者が満足に供養できなかった不満は戦時中に多くの方が

感じた不満と共通するものがあったのです。

結果的に被災地では供養やその後の葬儀に対しては戦後の日本と同じ

ようなニーズが生まれているのです。








  

Posted by フューネ三浦 at 08:30 │役立つ雑でない雑学

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2015年07月23日

供養の期間

「あなたの最後の親孝行
一緒に考えてみませんか。」


これはフューネのテレビCMのナレーションですが、お葬式は

最後の親孝行であることの啓蒙活動は今後も続けていきます。

本来親孝行は親が生きている間にしなくてはならないものなのですが、

親が亡くなって初めて後悔する方がほとんどなのです。

その為、葬儀が終わり、お棺の蓋を開けて最後のお別れをする時には

大抵の場合、「懺悔」「感謝」の言葉に埋め尽くされます。

子にとって親の存在は当たり前であり、失って初めてその大切さに

気づくものです。幸い私の両親はまだ健在ですので、私自身も

本当の意味で親の有難さを理解していないものだと思うのです。

生前に親孝行が出来なかった後悔はお葬式をすることで、後悔と

いう気持ちを薄れさせることができます。

そして、本当の意味での親孝行は死後の供養をするということ

なのかもしれません。

年忌法要には一周忌・三回忌・七回忌 ・十三回忌 ・十七回忌

・二十三回忌二十五回忌 ・二十七回忌 ・三十三回忌
とあります。

今では3回忌くらいまでしか親戚を呼んで法要をすることをしない家が

増えてきましたが、年忌法要をいつまでやるのかという質問に今でも

一番多い答えが33回忌なのです。もちろん年忌法要は33回忌で

終わりではなくて50回忌・100回忌とあるのですが、なぜ33回忌で

多く方が一定の区切りをつけるのかという疑問が湧いてきます。

諸説あるのですが、33回忌というのは

子が亡くなるタイミングだからです。

実際に親の50回忌を子が施主で行うケースは極めて稀ですし、

100回忌に至っては孫・ひ孫の代でも怪しいものです。

つまり、子は生きている間の期間がおよそ、親の死から33年くらい

であり、親の供養は子は生きている間に行う親孝行なのです。



近年、お葬式に簡素化に伴い年忌法要までもが、簡素化の傾向です。

法要の大小は関係ありませんが、自身の元気な内はお墓参りや

朝晩の仏壇のお参りなど、自分自身のペースで供養することが、

一番の親孝行なのかもしれません。










  

2015年06月05日

歯型

人が亡くなるのはいわゆる畳の上だけでないのは皆様もご理解は

頂けているのではないかと思います。

事件や事故、自殺そして孤独死。。。

何とも言えない亡くなり方であり多くの場合、「悲しみ」の深い

お葬式になることは必定です。

このような場合まず100%警察による検死の対象になり、身元の確認が

行われます。親族がお亡くなりになられた方のお顔を見て身元を判別を

出来る場合は良いのですが、かなりの確率で顔を見て判別できない

ケースに遭遇します。お顔が解らないばかりか、男女の区別さえも

出来ないケースは意外と多いのです。

焼死や死後一週間以上経って腐敗している状態など私もこれまでに

なんとも言えない状態のご遺体に遭遇してきました。




顔で判別の出来ないケースでまず最初に用いる本人確認の方法は

歯の治療痕からの判別です。

歯は基本的にお亡くなりになられても変わることがなく、また歯科に

通院していれば、記録が残っているものです。

結果的に多くの歯科医師が検死の現場で本人の確認作業に携わって

いるのです。

知り合いの歯科医師に聞いてみると治療の痕は確実に記録があり、

それと照合すると簡単にその人か解るものなのですが、自分が直した

治療痕も多いのだとか。結局のところ、生前に複数の歯科医を変える

という浮気する患者さんが多いだそうです。

さらに、歯のカタチはレントゲンを撮っておけば、不慮の死に

遭遇してもご遺体の歯型をレントゲンで撮影し生前のものと照合すると

ぴったりと一致をするというのです。

それでも、歯型では本人確認が出来ないケースがあります。

そのような場合は現在はDNA鑑定という方法が採用できる

ようになりました。ただDNA鑑定で分かるには親族のDNAが

必要です。




お亡くなりになられた方は誰か?

一刻でも早く身元を判明し、遺族の元に返してあげたいと日本中の

警察官が一所懸命やってくれている大変な仕事なのです。


  

Posted by フューネ三浦 at 08:22 │役立つ雑でない雑学

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2015年05月24日

ありがとうの反対は

「ありがとう」という言葉は魔法の言葉です。

「ありがとう」と言われて怒る人はいないし、「ありがとう」と

いわれる度に優しい気持ちになれるものです。

「ありがとう」という気持ちは例え、言葉が通じなくても通じるもの

ですし、「ありがとう」という言葉にどれだけ多くの人が勇気づけ

られるのかは私が説明をする必要はないでしょう。

悲しい葬儀のお別れの言葉も「ありがとう」という言葉が最適です。

「さようなら」「いってらっしゃい」

別れには適切な言葉ですが、もうこの世では会えないというお別れで

あればこそ、お亡くなりの方に感謝の気持ちが素直に表れた

「ありがとう」が究極のお別れの言葉になるのです。



「ありがとう」を漢字で書くと、「有り難う」となります。これは、

「有」ることが「難しい」わけで、「めったにない」という

意味になのです。

「ありがとう」の語源は「めったにない」ならば、反対を意味する

言葉は何になるのでしょうか。

それは「あたりまえ」なのです。

「あたりまえ」は「そこにあることが当然」という意味です。

私たちの身のまわりにある水や空気などあることがあたりまえの

物は普段はあることに何も疑念を感じません。

しかし無くなるとそれはとても大事だったことに誰もが気づき、

そしてあたりまえの反対になった時に「ありがとう」という

感謝の気持ちが表れるのです。

もしかしてあたりまえの「平和」も無くならなければ、絶対に

感謝なんかしないですよね。

あたりまえの反対が感謝であること。「ありがとう」という

言葉は「ありがとう」の反対にある「あたりまえ」を気づかせて

くれるからこそ魔法をかけた言葉なのです。





最愛の人を亡くした時、いつもそばにいることに何も疑問を感じ

なかった「あたりまえ」が初めて見えるから人は「ありがとう」という

お別れの言葉を自然と口にするのです。

というより、あたりまえと思っていた楽しかった思い出に感謝する

から、「ありがとう」が究極のお別れの言葉で良いのです。








  

2015年03月11日

お釈迦様の逸話

お釈迦さまの教えは人間の心の葛藤の本質を突いているものが

多いのですが、「死は必然」であることを説いたゴータミーの

逸話は何度聞いても素晴らしい教えであると思います。




以下はゴータミーの逸話の要約です。
瀬戸内寂静著「寂庵説法」より引用

ゴータミーという若いお母さんがいました。赤ん坊が生まれましたが、一週間もたたないうちに、病気で死んでしまいました。
彼女はあまりの悲しさに、頭がおかしくなるほど泣き沈みました。
やがて、死んだ赤ちゃんをしっかり胸に抱きしめて、 「私の赤ちゃんを生き返らせて下さい」と言いながら町をさまよう彼女の姿を人々は見るようになりました。ある人があまり可哀そうなので、「むこうの森へ行くと、お釈迦さまがお説法をしていらっしゃいますよ。そこへ行って、お偉い方だからお願いしてごらん」といいました。

ゴータミーは喜んで、その森への道を教わって、すぐ駆けつけました。たくさんの人々がとりまいて座っている中心に、お釈迦さまがいらっしゃいました。何か尊いお説法を聞いているのでしょう。みんな声もたてず、お釈迦さまの方に顔を向けて、熱心に聴いています。ゴータミーは、その中に飛び込み、「あたしの赤ちゃんを行きかえらせてちょうだい」と叫びました。みんなは気のふれた女だと思い、取り押さえて外へつれだそうとしました。

その時、お釈迦さまが、「女よ、ここにいらっしゃい」と声をかけました。ゴータミーは、すぐお釈迦さまの前へすすみました。お釈迦さまは、ゴータミーにこのように言いました。 「この村の家々をまわって、けしの実をもらってきなさい。ただし、これまで一度も死人を出したことのない家のけしの実でなくてはいけない。それをもらってわたしの所に持ってきなさい。そうすれば、赤子は息を吹き返すだろう」
ゴータミーは勇んで、家々を回りました。我が子が生き返ると聞いた彼女は必死でした。

しかし、訪問をうけた家の人たちは、悲しく首を振るだけでした。
どの家を回ってもお釈迦さまの言われるけしの実は手に入りませんでした。死人を出したことのない家など一軒もなかったのです。その時、ゴータミーははっとしました。『愛するものを喪った悲しみはわたしひとりのものではない。これまで、みなが味わってきたかなしみなのだ。
生きとし生けるものは死をまぬかれることができない。そのことわりをしっかりと胸にだいて、かなしみをしずめなければならないのだ』。そう思ったとき、かなしみは消え、ゴータミーはブッダの弟子になったということです。



人は誰もが死ぬのです。葬儀という仕事をしていても

日常の生活の中でこの原理原則を忘れてしまうことがあるのです。

確かに「明日死ぬかもしれない」と思って人生を送っていたら心が

病んだり、疲れてしまいますがやはり原理原則を忘れるべきでは

ないのです。



葬儀の仕事をしているとお客様が嘆き悲しみ、悲しみの状態から

抜け出せない場面によく遭遇します。

「なんで私ばっかりがこんな目に遭うの」

とはっきりと口にされる方もいらっしゃいます。

そのような方を立ち直らせるにはこのお釈迦様の教えは大変効果が

あると思うのです。

「愛するものを喪った悲しみはわたしひとりの
ものではない。これまで、みなが味わってきた
悲しみなのだ」

これが人間の真理だから、人は悲しみにくれる人に優しくなれる

のだと思うのです。







  

Posted by フューネ三浦 at 08:30 │役立つ雑でない雑学

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2015年03月09日

「きょうよう」と「きょういく」

「きょうよう」「きょういく」はご存じですか?

通常は「教養」と「教育」と解釈すればよいのですが、

ここでは「今日の用事」と「今日行くところ」と解釈します。

「今日の用事」で「きょうよう」、

「今日行くところ」で「きょういく」と言う意味ですが、

これは高齢者の問題点を指摘する時によく用いるシャレなのです。

現役を引退した高齢者にとって切実な問題は

「朝、起きてもすることがない。

行くところがない」

といった方が多いのです。

日々忙しい私からは考えられないようなことですが、現役時代に

忙しい仕事人間であればあるほど、このような問題に直面する

ことが多いのだとか。

仕事上のお付き合いも大事ですが、それ以外のお付き合いをして

おかないと私も他人事とはいえません。




考えてみれば、誰もが今日する用事がある訳ではなく、誰もが

今日行くところがある訳でないということなのです。

本来、忙しい、忙しいと言っている間は本当に贅沢でありがたい

至福な時間なのでしょう。

そういった意味では私は本当に幸せです。




高齢者にとって、病院の通院も友人のお葬式もある意味楽しみな用事

です。それを証拠に葬儀の最中に大きな声で友人との久方ぶりの

談笑を大きな声でされている場面にしばしば出会います。

当人は気づかないけれど、周りの方は本当に迷惑であり、葬儀社の

社員としてもご年配の方に注意をするのもちょっと勇気がいる

ものです。くれぐれもTPOだけは気を付けて楽しく過ごして頂きたい

ものと思います。











  

Posted by フューネ三浦 at 08:26 │役立つ雑でない雑学

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2015年02月23日

漢字

フューネの入社試験では面接の他の筆記試験は漢字のテストのみ。

一人の社会人として英語や数学などの基礎知識も必要でしょうが、

葬儀社において漢字の読み書きの能力は特別に重要なのです。

葬儀において絶対に間違えられないのが人の名前と生花等の

供物につける看板名。次いでいうと請求書名もです。

常用漢字以外の漢字を頻繁にお客様とやりとりをするのには

一つの漢字に対して何種類の読み方や書き方を理解していなければ

ならないのです。




ご存じのように漢字はお隣の国、中国から入ってきた漢民族が使用

していた文字ですが、日本に入ってきて日本の仕様にアレンジされ、

本来の漢字の持つ、音読みに加え、訓読みという日本独特の読み方

も発明されました。それに加えてひらがなやカタカナの発明が今日の

日本語になっています。

常用漢字は約2000字ありますが、これは時代とともに中身が変わって

いく物です。

今の日本人はパソコンやスマートホフォンの普及により、書けない

けれど読める漢字を使用することが増えてきました。このことから

常用漢字の選考にも、多くの国民が書けないけれど、読める漢字が

常用漢字に入っていくようなのです。

例えば憂鬱の「鬱」なんで読めても書けないですよね。




アルファベットなどの外国の文字と違って覚えるのはとても大変

ですが、一度覚えてしまえば様々な表現ができるのが漢字の

一番素晴らしいことではないでしょうか。

自分の感情を漢字を変えるだけでわずかな違いを表現できて

しまうのですから。




自分の想いを表現できるからと言って少々困りものが

「キラキラネーム」と言われる子供の名前です。

どう読んでも読めない当て字や連想ゲームかと

突っ込みをいれたくなるような漢字にはこれから、葬儀社は

悩まされていくのでしょうか。

キラキラネームばかりの焼香の順位帳なんて考えただけでも

「ゾッ」とします。















  

Posted by フューネ三浦 at 08:38 │役立つ雑でない雑学

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2015年01月11日

遺体は腐敗する

これまでに何度かご遺体が腐っていく状態の記事をブログで書いて

きました。人の死において必ずしも綺麗な状態で死を迎えることが

不可能なのが現実です。直近の記事では

2014年12月11日付ブログ記事「腐敗臭」では腐敗するご遺体からの

強烈な匂いについて書かせて頂きました。

ご遺体が腐っていくにつれて想像を超えた強烈な匂いは経験した

ことがなければ、表現するのは難しいでしょう。



地域の皆様が葬儀について、積極的にお手伝い頂いていた時代と

違い、一般の日常の生活なかで、一般の方がご遺体に触れるという

機会はほとんど皆無です。つまり、多くの人の場合、ご遺体を目にする

ことさえ、ほとんど無いのです。このような中で、ご遺体に関する

一般的な知識を持つ方も減っています。先日、読んでいた葬儀関連の

書物の中では「遺体は腐敗する」という一般常識さえも

持ち合わせていない人がいるという嘆きの投稿がありました。

ご遺体が腐るということ知らないで1週間、2週間後に葬儀をして

しまったというケース。

最早、笑い事ではないのかもしれません。

ひと昔の葬儀の現場ではご遺体の保全に対し、お客様のほうが詳しい

ようなことが頻繁にあったのですが、今は警察や自衛隊、もしくは

医療関係者くらいしか知識を持ち合わせていません。

戦争体験者にとって死は隣合わせであり、ご遺体の処置の経験のある

方がほとんどです。ですから、高齢な方にとってはご遺体保全の知識は

一般常識なのですが、戦後70年経った今、戦争の経験者はかなりの

少数になってしまっています。



腐敗したご遺体の処理をする時にいつも私が思うのは

「絶対に戦争はするべきでない」

ということです。腐敗したご遺体の放つ異常ともいえる悪臭が

日常であった戦時中は匂いだけでも地獄です。

日航ジャンボ機の墜落の時に遺体安置所であった体育館もご遺体が

放つ異様な悪臭であったいうことですが、多くの死体が散乱する

戦場には同じ匂いがあったはずです。

戦争を知らない私が戦争のことをバーチャルでしか感じないように

今の若い世代にとってもご遺体の腐敗はバーチャルでしか感じる

ことができないのです。
























  

Posted by フューネ三浦 at 08:39 │役立つ雑でない雑学

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2014年11月25日

火を熾す。火を守る。

人間が他の動物と違う一番の違いが火を使うをことが出来るという

ことです。火を使うことによって自分よりも強い獣からも身を守る

ことが出来るようになったり、火を使って生では食べられない

食物さえも食べることが出来るようになったのです。人間が人間で

ある限り、いかに火を大切にしなければならないのです。

しかしながら、最近の子供達は火を触ることだけでなく火を見ることも

少なくなっています。理由は「危ない」から。

大人たちの都合もありますが、これでは教育上良くないと思います。

今ではマッチの使い方も知らない子供がたくさんいるのですから。

家庭においてもガスではなくオール電化によりIHの料理器ではガスの

炎さえも見ることが無いのです。

ある意味、キャンプでの火熾(ひおこ)しの体験や飯盒を使った調理など

は人間が人間として生きていく為には絶対に必要な教育なのです。




さて、葬儀の現場でも火は切っても切れない関係ですが、時代の流れ

の中で、少しずつ火を使うことが少なくなっています。

葬儀会館に使用するロウソクやキャンドルさえも下の写真のように

火を使わないダミーのものを使用することもあります。



本来、通夜・葬儀で使う「火」は獣からご遺体を守る為に絶対に

必要な道具でした。

ご遺体が放つ死臭によって獣が集まってくるのは自然界においては

当然の理です。残された遺族が朝までご遺体を獣から守る為に

夜を通じて寝ずに火の番をしたから「通夜」と言うのです。

現在行われている通夜は多くの方にお経が終わったら通夜が終わり

と錯覚させるほど、通夜本来の意味合いは全く無くなっています。

フューネのお客様においても朝までロウソクと線香を交代に替える番を

される通夜本来の行いをされるお客様はごくごく少数です。



現代は火を直接使わなくても自分の安全が守れる時代ですからそれは

それで便利さを享受していけば良いのですが、人間が他の動物と

違うのは「火を使える」ということの意味合いを絶対に

忘れてはならないのです。














  

Posted by フューネ三浦 at 08:41 │役立つ雑でない雑学

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