2022年06月10日

ロックダウンの影響は葬儀の備品にも

コロナ禍の中で、日本以外の国では感染対策として国家が強制的に

隔離をするロックダウンは多くの人々の自由を奪ってしまうものです。

ロックダウンは様々な犠牲の上に成り立っていますが、いわゆる

経済活動はとかく大打撃を与えるものです。

特にお隣の国、中国のゼロコロナ政策は傍から見ていても

「やりすぎ」と思えるくらいの徹底ぶりであり、これが日本で行われ

たらと思うとゾッとします。上海のロックダウンは規模が大きいだけに

様々な影響が私たちの周りにも出ています。



実はお葬式で使う、位牌や柩、経机などの消耗品は中国で生産されて

いるものが多いのです。それも、上海の郊外の工場で生産され、

上海の港から日本に輸出されているケースが多いのです。

今回の上海のロックダウンでは葬儀の備品の調達にも多大な影響を

及ぼしています。特に木製品は近年のウッドショックの影響に

ロックダウンの影響が加わり、お位牌やお塔婆などはコロナ禍前の

価格と比べると2倍から3倍に跳ね上がっています。

半導体不足が叫ばれ、半導体が無いばかりに日本国内で工業製品が

生産出来ない状況と比べると規模はかなり小さいかもしれませんが、

葬儀において必要な備品が調達が難しくなるのも困りものなのです。



葬儀の備品もメイドイン・ジャパンの物も、もちろんありますが、

製造は日本国内でも部品は海外からというものが実は数えきれない

ほど存在します。私たちの生活を支えてくれる社会の仕組みは

本当にクローバルであり、日本の伝統文化の象徴でもある

日本式のお葬式にも世界レベルのアクシデントが密接に影響を

及ぼすのです。

現在、様々な災いが私たちの周辺に降りかかってきていますが、

一刻も早く、平穏な世の中になることを願ってやみません。



  

Posted by フューネ三浦 at 08:38 │役立つ雑でない雑学

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2022年05月20日

「忘れない」ために供養をすること

最近、少しづつですが、法要のお客様が戻り始めています。

コロナ禍前の水準にはまだまだほど遠いですが本当に

少しづつですが、法要の売上は上向きです。

一回目の緊急事態宣言により、不要不急な行事を自粛が

叫ばれ、各種年忌法要は「不要不急」に分類され法要の予約は

一時、対前年比90%のダウンというレベルに。

これは我々葬儀社だけでなく、仕出し料理屋さんやお寺様も同じ

ダウンでした。法要が次々とキャンセルが入り、知り合いのお寺様が

お布施の収入が8割減で生活が出来ないと嘆いていたのが、2年前

の出来事です。




年忌法要のお客様が少しづつ戻り始めたのはやはり、会食時の人数

制限や行動制限が解除されたことが大きな要因ですが、

それ以上に本質的な理由は、「供養は大事」と多くの皆様が思い出して

くれたことだと思うのです。

供養の本質は大切な人のことを「忘れないであげること」です。

日々の忙しい生活の中で、鬼籍に入った人のことを忘れがちですが、

年忌法要を親族や関係者の皆様が一同に会することで思い出すが

できることこそ、年忌法要開催の意義です。

そこに集う人たちも久しぶりの再会が多く、食事をしながら、

酒を飲みかわしながら、思い出話に花を咲かせることがいかに

大切なことかと思うのです。




残念ながら、不要不急に分類された年忌法要ですが、

人が生きていく為の心の拠り所としては二度と不要不急に

分類してはならないのです。

人はご先祖様に思いを馳せ目では見えない世界の人との

繋がりをも大切にして、生き続けていくのです。

大切な人のことを忘れない為に供養をしていくことは自分自身が

「生きること」でもあるのです。











  

Posted by フューネ三浦 at 08:18 │役立つ雑でない雑学

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2021年07月20日

法事(法要)を省略したいのですが。

お葬式を終えられたお客様からご相談を受けることの中に

法事のご相談はかなり多いのです。

おおよそ、葬儀と同じ日に行うことの多い初七日と言われる

法要から、二七日(ふたなのか) 、三七日(みなのか)、四七日(よなのか)

五七日(=三十五日)(いつなのか)、六七日(むなのか)

七七日(=四十九日)(なななのか)(しじゅうくにち)

までの49日間の毎週の法要はまずはじめに行わなければならない

法要です。以前のブログでも書きましたが、法要一つ一つにはもちろん

重要な意味合いがあって、特に49日までの法要は閻魔大王の審判が

下り、来世の世界が決まる大事な法要です。

しかしながら、ご遺族の皆様の負担を考えると省略をしたいと

思われる方が大半を占めています。

現在、お寺様の中には忌明けと呼ばれる35日の法要もしくは49日の

法要以外の法要を最初から省いて行うことを提案される方も

いらっしゃいますが、宗教者としては省略は出来ないと頑なに

省略を認めないお寺様もいらっしゃるのです。




ところで、「法要」と「法事」の違いは何かというと「法要」とは

宗教に基づいた儀礼を指し、「法事」とは読経の後の食事を

含めた行事全般を指します。

2020年に起きたコロナ禍の時代に法要(法事)は多くの人が

不要不急の行事に分類し、多くの法要が中止になりました。

結果的にお寺様に限らず、我々葬祭業者・生花店・和菓子店などの

法要に関連する業者は売上が蒸発することになってしまいました。

改めて、法要の需要で売上が確保できていたことを認識させられる

ことになったのです。



不要不急と分類すれば、いくらでも省略することが解ってしまった

現代人はこれからはお寺様の意思に関係なく多くの人が遠慮なく

法要を省略されていくでしょう。

しかしながら、亡くなった人を弔うとという本来の法要の利点に

加えて、亡くなった人を「忘れないでいる」という法要本来の持つ

役割をだけは忘れないで法要を省略する決断をして頂きたいのです。




年忌法要と呼ばれる一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌

二十三回忌・ 二十七回忌・三十三回忌・三十七回忌・四十三回忌

四十七回忌・ 五十回忌・百回忌

すべてを行う方は全体の1%もいないのが現実ですが、どの法要を

省略するのかは自分自身です。

先程から申し上げている通り、法要を省略するということは供養する

その人の存在をこの世から消してしまうことに繋がっていきます。

くれぐれも「忘れない」程度の省略をすることを肝に銘じて頂けると

よろしいのです。



  

2021年03月09日

季節の色

季節に色があることをご存知ですか。

五行説では

春は青色
夏は朱=赤色
秋は白色
冬は玄=黒色

と定まられています。

そして、それぞれの季節の色を

【青春】【朱夏】【白秋】【玄冬】

と表現をしているのです。

季節の色を意識して生活をすることで、季節を愛でることができ、

巡りくる季節を意識することで、人生は間違いなく豊かに

なっていくのです。


ところで、季節の色は人の一生をも上手に表現しています。

若年期の「青春」は最も有名で、季節の色があることをご存知なかった

方でも「青春」という言葉はよく使用されたことと思います。

成長期の「朱夏」はパワーがみなぎっている状態で何事もアクティブに

活躍できる状態をよく表しています。

熟年期である「白秋」は歌人「北原白秋」が号として用いたので

馴染みもあるかと思いますが、これまでの人生の経験から

物事の道理をわきまえた人間としての成熟を見事に

表しています。

そして、老年期である「玄冬」は人生を振り返る大切な季節。

春夏秋冬と言いますが、人生に例えると季節の始まりは春でなければ、

説明がつかないのです。




お葬式はお亡くなりになられた方の人生をいかに表現をするかと

いういうことは葬儀社の腕の見せ所です。

人生の卒業式であるお葬式はやはり、その人らしい生き方を

体現してこそ、「感動葬儀。」なのです。








  

Posted by フューネ三浦 at 13:53 │役立つ雑でない雑学

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2021年01月11日

「とんでもございません」は「とんでもない」

フューネでは毎朝、朝礼時に「お客様との会話で正しく使いたい敬語」

の唱和を実施しています。

正しい言葉遣いというものは自分自身の思い込みなどで正しく

使うことが出来ずに、間違ったまま使っていても間違いに

気づいていないことがあり、サービスのプロである葬儀社の社員が

正しい敬語を使えないことはやはり恥ずかしいと考えます。

49例ある敬語を日替わりで唱和していくのですが、

その中で一番正しく使うことが出来ない敬語は

「とんでもないことでございます。」なのです。

よく「とんでもありません」「とんでもございません。」

と謙遜の意味で使っているのは実は間違いなのです。

「とんでもない」という言葉の意味としては

「①思いがけないこと」という意味があり、謙遜として使う場合は

この意味に該当します。

「とんでもないことでございます」と正しく使えば、思いがけずに

嬉しかったという意味なりますが、

「とんでもありません」と言ってしまうと「②けしからん」という

相手を責める言葉に変わってしまうのです。

つまりは、本人は謙遜の意味で敬語を使っているつもりでも、相手に

「けしからん」と言ってしまっているのです。

これはとても恥ずかしくて相手に失礼なことです。




「とんでもありません」と口癖のように言っている社員たちに

「とんでもないことでございます」と正しく敬語を使うことを

習得させることが教育なのです。

「とんでもございません」は「とんでもない」敬語の使い方です。

正しく言葉を使うことは本当に難しいですね。

それでも、正しく使い続けていれば間違った使い方に触れた時に

違和感を感じるようになりますから、言葉の勉強も「感動葬儀。」の

提供には必要不可欠なことなのです。







  

Posted by フューネ三浦 at 09:26 │役立つ雑でない雑学

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2019年06月11日

服装のマナー

「ドレスコード」という言葉があります。

簡単に説明をすると「服装の規則」という言葉で表現をするのが

正しいと思いますが、冠婚葬祭をはじめレストラン・ゴルフ場など

ではドレスコードを守ってTPOに合わせた服装を着用するのは

マナーの基本です。

服装のマナーというものは「相手に対する思いやり」の為に

存在をするのです。

レストランで誕生日などの記念に食事をしている時に隣に座った

お客様が作業着に近い汚い服を着ていれば、せっかくの記念日

の会食が台無しになってしまいます。

デートの時もドレスコードは守るべきで、例えば男性が女性に

「着物を着てきて欲しい」ということをお願いした時に自分は

Tシャツにジーパンという格好でデートに臨んだら着物を時間を

かけて着た女性はどのような気持ちになるでしょうか。

相手に合わせて和装とはいかなくてもスーツやジャケットなどの

服装で臨むべきです。

相手に対する思いやりがあれば、ドレスコードは自然に守っていける

ものです。



最近のお葬式は小規模化、簡素化の傾向にあり、葬儀の時の服装

においても簡略化を望まれるお客様が非常に増えてきています。

中には葬儀において普段着といっても良いようなラフな格好で参加

をされる方もいらっしゃいます。

特にお通夜の時は職場の制服や作業着のまま参列をされるお客様は

多いのですが、やはりどんなに時間が無くても、着替えをして参列を

することが「相手に対しての思いやり」でしょう。

参列をする以上、突然の悲しみに襲われたご遺族に対し何らかの

「弔意」をお伝えするのが本意であるのです。

その為にはたとえお悔みの言葉は発することが無くても弔意を示す

「黒」色の服を着ることで充分に弔意を伝わるのです。

ですから、例え時間が無くても着替えてから参列することがいかに

重要なことが理解をして頂いたと思います。





繰り返しになりますが、服装のマナーとは「相手に対する思いやり」。

日常の生活の中でも相手にあわせて着るものを選ぶことが出来る

人はとても素敵な人です。


















  

Posted by フューネ三浦 at 08:10 │役立つ雑でない雑学

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2018年09月23日

煙と匂い

加熱式のタバコが世の中に登場してから、タバコの煙はますます肩身の

狭いものになりつつあります。

煙というものは匂いが付きやすく、大抵の煙は臭い匂いを

発するものです。

これに対してお線香というものは基本的に良い匂いを発するもの

であり、香りを楽しめます。日本には古来から「香道」という

香の芸術を嗜む文化があります。



以前のブログ記事で何度も書いてきましたが、葬儀の時にお線香を

使用する目的の一つに、死臭を消す為という目的があります。

また、葬儀以外の仏事にも線香を使用するのは、僧侶が何日もお風呂に

入らない時に臭い匂いを中和させるという目的もあるのだとか。

いずれにしても、の人は生きていく上で「匂い」は昔も今もとても

敏感に反応してきたものです。



仏事においては煙の役割として臨終の時に煙が上に登っていく様を

表現しており、線香から生まれる煙はあの世までの橋渡しであり、

とてもありがたいものとなっています。

煙から発するもやもやは「雲」でであり、仏事では仏が乗って

来る雲で縁起が良いとされている「紫雲」を表現しているのです。

お線香には煙と匂いの両方に意味合いがあり、またそれを昔から

重宝してきましたけれど、近年では煙は文字通り煙たがれるものに

なってきましたし、匂いにおいては好き嫌いがはっきりと分かれるもの

になってきました。




クリーンな空気がもてはやされる今日ですから、これからはもっと

厳しい匂いのエチケットが求められる世の中になりそうです。

自分自身の体臭も気を付けていかなければなりませんし、

お葬式で使用するお線香の匂いも上手に選んでいかなければ

なりません。








  

Posted by フューネ三浦 at 08:16 │役立つ雑でない雑学

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2018年06月23日

ギフト力

葬儀の世界も時代とともに流行があり、形式が変わっていきます。

ご承知のとおり、近年の葬儀の形式は小規模化の波に巻き込まれて

います。家族葬・直葬という言葉を聞いても誰もが解説を必要としなく

なっている現状には「変化」に対応していくことがお客様から支持を

される唯一の手法だといつも考えています。




葬儀の小規模化に伴い葬儀社として売上が激減しているのが

「ギフトの部門」です。

葬儀に多くの参列客がお越しになられることが当たり前の時代では

葬儀の返礼品で大きな収益をあげていた葬儀社も多数あり、ギフト部門

の売上に頼っていた葬儀社は時代の変化に対応するのに大変な苦労が

あったのです。

冠婚葬祭において「贈り物」必須アイテムであり、どんな贈り物をする

のかでその人のセンスが問われるものでした。




冠婚葬祭のギフトに限らず、お中元・お歳暮などの季節の挨拶も

省略される方が多くなっている昨今、日本人の「ギフト力」は

落ちています。

突然ですが、「プレゼント」と「ギフト」の違いはご存知でしょうか?

どちちも日本語に訳すと「贈り物」と訳すことができるのですが、

「プレゼント」という言葉には「親しい人への贈り物」という意味が

あり、「ギフト」には「才能」という意味があります。

つまり、ギフトには贈る側の「才能」が試されるということです。

「ギフト力」が落ちるということは商品を選ぶ才能が落ちる

ということです。

現実に葬儀や結婚式のギフトに「カタログギフト」を選んでしまうのは

ギフト力が低下している証拠なのです。

親しい人に贈るプレゼントにカタログギフトを贈る人はまずいません

から、いかにカタログギフトを安易に選ぶことがギフト力の低下なのか

ご理解頂けると思います。

もっとも、カタログギフトがすべて悪い訳ではありません。近年は

目的や嗜好にあった様々な商品が発売されているので、贈る人に

あわせてチョイスすることはギフト力が無ければできませんし、

相手が喜ぶ、カタログギフトを選ぶことはまさに「才能」なのです。



家族葬での贈り物は親しい方々に贈るのでどちらかというと

「プレゼント」であり、一般的なお葬式での贈り物は特定多数の

方に贈る贈り物ですから「ギフト」と定義するのがよいでしょう。

つまり、家族葬と一般的なお葬式に贈る葬儀の返礼品は同じ

ものではいけないのです。






  

2017年08月13日

葬儀後に故人のお金を銀行からおろすこと

ご承知の方も多いはずですが、基本的に人が亡くなると銀行の口座は

凍結され、自由に預金が引き出せなくなります。

フューネのお客様にアドバイスしているのは当面の資金として必要で

あれば、少しずつ預金を下ろしておくべきということですが、実際は

人の亡くなるのはどんな時も突然であり、実際にお亡くなりになって

すぐにATMに走っていかれるお客様もいらっしゃいます。

厳密には金融機関も亡くなったことを知った時からしか故人の

口座は凍結されませんから、お亡くなりになられてから、口座が

凍結されるまでの期間は法律的には非常にグレーなゾーンです。

実際に亡くなってから慌てて口座から預金を引き出しても相続の観点

から言えば、遡って追跡をさせるので何も意味はないのです。




葬儀後に故人のお金を銀行からおろすには相続人全員が同意した

遺産分割協議書が必要ですが、葬儀代等の支払いなどで急ぎで必要な

経費については証明書があれば、先に預金の一部を引き出すことは

大抵の金融機関が応じてくれます。

各金融機関によって対応は少しずつ違うので、まずは必要な書類を

相談してみることがとても大切です。



昨今は個人の財産をしっかりと保護するという風潮が強く

なっています。例え親・兄弟の財産であっても自由に

引き出すことが難しくなっているのが現状であり、

まして相続が絡むお金の流れには非常に慎重になって

います。

出来ることならば、「終活」のなかで早めの対策を心がける

ことをお勧めします。
  

2017年05月10日

戒名と俗名

日本人の宗教感の中で、死後の世界で生きていく為に戒名をつける

という習慣があります。

現状では多くの人はお寺様にお願いして何らかの戒名を頂いて

いるのが、実際のところです。

しかしながら、「本当に戒名は必要?」

と疑問を抱く人が増えていることも事実なのです。

端的に言えば戒名を頂くということは「仏教徒になる」ということ

なのですが、その意味合いも解らずに戒名を頂いている方々に

とって「戒名は必要?」という疑問に繋がってしまう訳なのです。





あの世が本当にあるのかと疑念を抱いている方々にとって

「戒名は必要なのか?」

という疑問は当然のことのように思います。

宗教家の説明が足りない・宗教家の話を聞かない・宗教家を信じて

いない方々はいわば、戒名のことがよくわからない状況で要る・

要らないの判断をしてしまっているのです。




一方、俗名(ぞくみょう)とは生前名乗っていた名前のことであり、

通常お亡くなりなられると位牌にはフルネームで記載をします。

お寺様に葬儀を依頼する時に、あえて戒名を付けずに「俗名」で

お葬式をされるケースは年々増えています。




言ってみれば、戒名をつけるかどうかは皆さまの自由です。

本来、仏教徒である人が頂く戒名ですが、とりあえず葬式は

お寺様に読経をあげていただこうと思っている方々が圧倒的に

多い今日において、仏教徒であるという意識の無い方に

「戒名は絶対に必要」と押し付けることは戒名の本質からも

外れているのです。











  

Posted by フューネ三浦 at 08:33 │役立つ雑でない雑学

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2017年03月11日

須弥山

お仏壇の中には大抵の場合「段」があります。2段、3段となっている

ものがありますが、なぜ「段」があるのでしょうか。

単なる中に飾る仏具の見栄えの為ではないのです。

ではいったい何を模しているのでしょうか。

実は、「山」を模してつくられているのです。

その山の名前は「須弥山(しゅみせん)」といいます。

須弥山は、古代インドの世界観の中で中心にそびえる山であり

人間が計り知れないようなとてつもなく大きな山であるのです。

須弥山の上空には、仏様たちがいます。その天上も二十五段階に

なっていて、それぞれの階層には仏さまとたくさんの菩薩さまが

いる宮殿があるそうです。




お葬式で使う祭壇の「段」も須弥山を表しています。

祭壇は仏教的な意味合いが多く含まれているパーツが多い

のですが、いつしか、葬儀を取り扱っている葬儀社の社員すら、

その意味を知らないレベル社員が増えているのです。

プロですらこのレベルですから、お客様が仏壇や祭壇の「段」に

深い意味を求めてこないことも事実です。

もちろん、本来の意味よりも供養する「心」のほうが大事であり、

意味合いの重要性はそれほどでないと思いますが、

「段」の一つに仏教の世界観が秘めていることを知っているだけで、

見方が変わるのです。

  

Posted by フューネ三浦 at 08:43 │役立つ雑でない雑学

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2016年08月16日

修多羅



上の写真は修多羅(しゅたら)といいお坊さんが袈裟(けさ)の上に

垂らす、装飾用の組紐(くみひも)です。

修多羅は袈裟と袈裟をつなぐ重要な紐であり、この紐が無いと袈裟を

着るのにしまりが無くなってしまい「だらしない」のです。

修多羅はサンスクリット語では「スートラ」といい、「スートラ」が

なまって「しだら」になります。これに否定をつけると「だらしない」

という言葉が生まれました。

「だらしない」という言葉は仏教用語から派生しているのです。




サンスクリット語で「スートラ」と言う修多羅は「お経」そのものを

表しています。私たちが修多羅に手を合わせるのはお経をそのものに

敬意を表していることと同じなのです。

本来の「スートラ」という言葉の意味は、織物の縦糸という意味で、

過去・現在・未来へと縦に貫いている不変なものを表わして

いるのです。

縦の糸はどんな時代になっても変わらないものを表現し、横糸は

常に移り変わって行くものやあてにならないもの、つまり私たちの

生活を表していると言われています。

修多羅が縦の糸で構成されているのは、変わらない命の伝承や

お経に書かれている教義を表現しています。

「お経」というのは、永遠に変わらぬ普遍的な真理を表わす言葉

なのですから。




昔のお葬式ではご年配の方が修多羅に手を合わせる光景がよく

見られましたが、最近では本当にこのような光景を見ることが無く

なりました。

修多羅の意味の伝承がうまくいっていないことやそもそも、

修多羅を有り難いと思わなくなった人々が増えているからでしょう。

意味を知ることでお葬式もまた、一つ楽しみが増えるのですが

いかがでしょうか。


  

Posted by フューネ三浦 at 08:15 │役立つ雑でない雑学

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2016年05月22日

愛別離苦

愛別離苦(あいべつりく)とは愛する人と別れなければならない

苦しみのことです。

誰もがこの苦しみから逃れたいと思うからこそ、昔から死というものに

対し忌み嫌うという習慣が生まれています。

結果的に「葬儀」という言葉が重いのは愛する人との別れを示唆して

いるという側面を否定できないものだからでしょう。




生きていくことは様々な苦難を乗り超えていくことなのですが、

生きているということは誰かを愛することに繋がります。

単に恋人だけでなく、子供、家族、同僚、友人そして隣人までも。




最近のお葬式を見ていると愛するべき存在との別れが充分に出来て

いないように感じます。

人間関係の中で、愛するべき範囲が狭くなっているのでしょうか。

いやそうではないと思います。

今も昔も人が人である限り、人によって多少こそあっても、愛する人の

範囲は変わっていないはずです。




愛する家族の別れだから、義理を排除したいから「家族葬で」

というニーズは現代において主流になりつつあります。

葬儀社の社長として、家族葬を今更否定するつもりは毛頭ない

のですが、本来の家族葬とはお亡くなりになられた方中心に

「愛」というキーワードで結ばれた人々の集合体でなければならない

と思うのです。



葬儀社の仕事というのは言ってみれば「愛別離苦」という苦しみに

陥っている人々の心を少しでも早く癒してあげることです。

専門的にはグリーフケアという言葉で集約をされますが、

葬儀においてそもそも、お亡くなりになられた方が愛していた人が

集まって頂けなければ、解決することが難しいものかもしれません。
















  

Posted by フューネ三浦 at 08:40 │役立つ雑でない雑学

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2016年03月05日

鬼のパンツはなぜトラ柄なのか。

「鬼のパンツは いいパンツ つよいぞ つよいぞ♪」

幼稚園に通う我が家の長男坊が時折、歌う「鬼のパンツ」という

歌はユーモラスで耳に残るフレーズで、微笑ましいものです。

歌詞の意味は丈夫な鬼のパンツをみんなで履こうと繰り返し

呼びかけるものですが、どうもこの歌はイタリアの曲であり、

原曲とはまったく関係のない歌詞が日本でついているそうです。





ところで、なぜ鬼のパンツは決まって「トラ柄なのでしょうか?」

今までパンツの柄まで意識して見てこなかった方もいらっしゃる

でしょうが、よく見て頂ければパンツは決まってトラ柄です。

それは鬼の住処かである方角に由来しています。



鬼の住む方角を鬼門といい。北東のことを指します。

上の表のとおり、北東は別の表現の仕方で「うしとら」の方角のことで

なのです。ですから鬼のキャラクターには「丑」と「寅」が表現されて

いるのです。トラはパンツ柄で。

では「ウシ」はいうと鬼のツノは「ウシ」のツノなのです。



鬼という語源をたどると「隠(おん)」という言葉の言い換え

であり、「オン」が変化して「オニ」に変わりました。

隠とは隠れるという意味でつまりは死者のことなのです。

昔の人は死者に対するケガレ・畏敬や恐怖心から鬼という

キャラクターをつくりあげたのです。




2月3日の節分の豆まきは家の中から邪気を追い払う日本の伝統行事

ですが、節分の時にかぶる鬼のお面も可愛らしいキャラクターのもの

が増え、「鬼のパンツ」の歌も幼稚園児が口ずさむ昨今では鬼の持つ

本来の恐怖は全く表現されていないのが実情です。

「鬼のパンツ」の歌に日本語の歌詞をつけた人は鬼の本来の意味合いを

理解して付けたとは到底思えませんが、それはそれで良かったこと

なのでしょう。







  

Posted by フューネ三浦 at 08:39 │役立つ雑でない雑学

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2016年01月21日

「いただきます」と「ごちそうさま」の間で

食事のあいさつと言えば、

「いただきます」「ごちそうさま」でしょう。

どちらの言葉も意味を知って使えば大変素晴らしい言葉なのです。

まずは「いただきます」 から

「いただきます」とは、「私の命のために動植物の命を頂きます」の

意味からです。人が生きていく為には動物に限らず、草や木の

命さえも「いただくこと」が必定です。

私たちの生きていく代償としていのちを頂くことの意義を忘れない為の

「いただきます」なのです。

次に「ごちそうさま」ですが「ご馳走様」は「馳走になりました」の

ことで「馳」、「走」という漢字はともに「はしる」の意味です。

昔はお客様を迎えるのに走り回って獲物をとってきてもてなしました。

このような行為に「心からありがとう」という感謝の気持ちを最大限

表した言葉です。



以前にこのブログでもご紹介しましたが、日本人は「食」に想いを

込めることがとても上手な民族であり、奈良時代に仏教が伝来した時

から寺院では修行僧が食について勉強するお堂が「食堂(じきどう)」で

あり、今日の食堂の語源でもあります。

お葬式においても食に様々な意味があり、そもそも食べることで

「供養」としました。

今でも故人と共にする最後の食事という意味の食事もありますし、

忌明けまでの生ものを食べてはいけないという殺生の心得などが

あるのです。



冠婚葬祭という非日常の時(ハレ)にしか食べられない寿司やお赤飯、

お餅といった食事も現代の日常の代表格であるコンビニに普通に

売っているのが当たり前という現状では食の教育というものは本当に

難しいものです。

加えて食材には本来「旬」と呼ばれる食べ頃があるのですが、これも

一年中食べられる現状の中で若い世代に「旬」ということさえ、教える

ことは難しいものです。



※関連記事 2015年3月23日付ブログ記事「食べるという供養」
http://fune.boo-log.com/e309130.html


お葬式と食についてはこれまでもブログに書いてきましたが、葬儀で

供される一つ一つの食事には意味があり、それを頂く側の作法もあり、

食も儀式となっています。

しかしながら、最近では食事そのものが空腹を満たすだけの行為に

なってしまっているのも事実であり、食からの学びを若い世代に

伝えることができていないのが実情です。



そのような現状であるのならば、せめても「いただきます」と

「ごちそうさま」の意味を伝えることだけでも現代の葬儀社として

お客様に伝えることが精一杯の文化伝承の役目なのです。





  

Posted by フューネ三浦 at 08:29 │役立つ雑でない雑学

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2015年12月11日

諸行無常

平家物語の冒頭の文句。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、

盛者必衰の理をあらはす。」

とはすべてのものは常に変化し、同じところにとどまることはない

という世の中の真理をうまく表現しています。

「諸行無常」

という言葉は仏教用語であり、仏教の思想にある根本的なもので、

あらゆるものは一瞬の間にも変化をくり返しているということを

私たちに教えてくれています。




人間とは元来保守的な生き物であり、変化を好む人はあまりいませんが

あらゆるものは変化するという真実を受け入れなければ

ならないのです。

人が「死」に直面した時こそ、有るものが無になることを最も理解する

ことが出来る場面であり、お葬式での仏教での教義では「諸行無常」の

ことを教育する最上の学び舎と昔からなっているのです。

どんな時代になろうともこの世にある一切のものは常に移り変わり、

不変のものはないということを理解することが「生」に対する感謝にも

繋がっていくのです。人生のはかなさを知ることが出来るのも

お葬式であるし、変わっていくこと大切さを知るのもお葬式なのです。





現代の世の中は「はかなさ」を語ることのできないくらいめまぐるしく

世の中が変化をしています。ほんの一年前に流行していた芸人さんの

ギャグさえも忘れられるという現実であるし、パソコンの画面が

切り替わることにたった一秒も待たされるとイラッとしてしまう

現代人。日々の変化に本質さえも見失っている人が多いことは

残念なことです。

一見変わっていないように見えるものは見えないところで

「変わらない為に変わっている」のです。

変わっていく世の中に対応するには毎月のお給料さえも

変わっていくという危機感を持たなければ、最早世の中で

対応できないスピードなのです。
  

Posted by フューネ三浦 at 08:35 │役立つ雑でない雑学

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2015年12月01日

厭離穢土・欣求浄土

今年、徳川家康公徳川家康公がお亡くなりなられてから400年目という

節目の年です。徳川家康が生まれた岡崎市をはじめ、ゆかりのある

浜松市や静岡市も「家康公四百年祭」と称して各種行事を

開催していますが、徳川家康のご先祖発祥の地である豊田市も

商工会議所が中心になって官民一体で「家康公四百年祭」の

各種行事を開催しています。

徳川家康の旗印はご存じ葵のご紋ですが、馬印は

厭離穢土・欣求浄土 おんりえど・ごんぐじょうど」

という言葉を用いていました。

これは桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へ

と逃げ隠れた時、これからの行く末を悲観した家康は松平家の墓前で

自害を試みるが、13代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説き、

切腹を思いとどまらせたと言われています。

言葉の意味は戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをして

いるから、国土が穢れきっている。

その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、

必ず仏の加護を得て事を成すということです。




徳川家康が馬印に使ったこの言葉は歴史上でも大変有名に

なりましたが、そもそも仏教用語であり、浄土教の用語なのです。

この娑婆世界を「穢れた国土」として、それを厭い離れるという意味

であり、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、

そこへの往生を切望するという意味です。

穢れたこの世からきれいなあの世に行きたいという極楽浄土への

憧れを促す言葉であり、多くの人が自分の死後の平安を願って

浄土教の教えに共感をしたのです。




このことが書いてある書物が源信というお坊さんが書いた

『往生要集』(985年)という書物です。

往生要集という書物は仏教においてとても重要な書物です。

なぜならば、あの世への行き方が明文化された唯一の書物であり、

阿弥陀如来様が支配する浄土にいくには

「南無阿弥陀仏」と唱えること

と言う基本理念を持った浄土宗、そしてさらに進化した浄土真宗

という宗派が生まれて行ったのです。


死の向こうにある世界観が各種宗教であると行っても過言ではない

くらい死後の世界観を表現するのはとても大切なことであり、

理想を求めることが前向きに生きることの活力に繋がっていくのです。


  

2015年11月02日

ありがとうの心

誰かに「感謝」をする時は「ありがとう」という言葉が

最も適切です。

特にお客様に対しては「ありがとう」といい言葉は常套句であり、

常套句であるからこそ、言葉に心がこもっているかどうかが言って

みれば差別化であり、間違っても一部のコンビニの店員さんのような

マニュアルに支配されただけの心の無い「ありがとう」はあっては

ならないのです。



20年以上前の世の中の常識では葬儀屋さんが「ありがとう」という

言葉を使うのは不適切ではないかという批判を受けることが

ありました。理由は商売上、「死を待っているのに」ありがとうとは

なんだということです。葬儀社の関係者にとって大変な屈辱的な

お客様の批判でした。

私たちはお客様の死を待っている訳ではなく、お客様のお困りの時に

救いの手の差し伸べることが出来る機会を作って頂きありがとうと

いうことですし、お亡くなりになられた方がいたからこそ、生まれた

お客様との出会いにありがとうということでした。私たちはそれを

「仏縁」という言葉で呼んでいます。

一部の批判的なご意見にもめげず「ありがとう」という言葉を

使い続けることによって今では葬儀社や葬儀会館にお越しに

なられたお客様に「ありがとう」と声をかけても誰も普通のことと

して捉えています。




「いらっしゃいませ」という言葉も「ありがとう」と同様でした。

私たちにとって葬儀会館にお越しになるお客様はお客様であり、

お客様に歓迎の意志を表示する最も適切な言葉は「いっらしゃいませ」

なのです。当初「いらっしゃませ」という言葉に違和感を感じていた

お客さまも最近ではほとんどいなくなりました。




「ありがとう」の語源を辿ると漢字では「有難う」であり、

苦難・困難・災難などのいくつもの「難」が有ること

という漢字の意味です。

難があることが有りがたしという言葉の意味が転じて

日常生活を当たり前こと捉えず、「滅多にないこと」

として感謝する心こそが「ありがとう」の心なのです。

「ありがとう」という言葉は私たちがあたりまえをあたりまえとして

思わないようにするための戒めの言葉あり、「戒め」という言葉の

意味を忘れた形だけのありがとうという言葉を発した時、

新たな苦難の始まりでもあるのです。




フューネではお棺の蓋を閉める最後の最後のお別れの時の言葉は

「ありがとう」と言ってお別れをして頂くようにお客様にお伝え

しています。死は今までお亡くなりの方が生きていたことが

あたりまえであったことがあたりまえでなかったと気づく瞬間であり、

だからこそ、心から言える「ありがとう」という言葉がこの世での

最期のお別れにはもっとも適切な言葉であると断言できるのです。
















  

Posted by フューネ三浦 at 08:26 │役立つ雑でない雑学

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2015年09月07日

観音さま



上の写真はフューネ本社の特別応接室に飾られている絵画です。

観音さまです。なぜこれが飾ってあるかというとそれは私が一番好きな

仏さまだからです。

「観音さま」は正しくは「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)

とよばれ日本で最も馴染みのある仏さまです。 観世音とは

「心で自由自在に世の中の音を観る仏」といわれています。

観音さまが多くの日本人にとって信仰される理由の根本に

菩薩の心を表す「上求菩提・下化衆生

(じょうぐぼだい・げげしゅじょう)
という精神があるのです。

上求菩提とは上を目指して悟りを求めること。

すなわち、自分自身が一生懸命頑張る姿です。

下化衆生とはこの迷いの世界にあって,真理をみずに惑い苦しむ

生きとし生けるものを救済することなのです。

観音さまにおすがりすれば、助けてくれるという観音信仰は下化衆生の

精神に基づいているのです。


菩薩とは仏教において一般的に成仏を求める修行者のことであり、

悟りを開いた人という意味の如来になろうとする前の状態です。

菩薩は観音さまだけでなく、弥勒菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩、

地蔵菩薩
などがありますが、観音さまに人気あるのは阿弥陀さま

の一番弟子であるからなのです。つまり、「上求菩提・下化衆生」の

一番の実践者であることも事実です。

さらに人気なのはその容姿にも理由の一つです。

母性的なイメージがある仏さまであり、母性を感じさせてくれる母の

温かさを感じます。しかし、観音さまは女性か?と言えば

答えはノーです。

本来は男性であるのですが、観音は女性的な顔立ちの為に

女性として見る場合が多い仏さまであり、心女体仏、男女一体仏と

とも言われ 男女両具、すなわち中性の仏さまなのです。

  

Posted by フューネ三浦 at 08:00 │役立つ雑でない雑学

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2015年08月14日

戦後70年とお葬式

戦後70年の節目の今年は改めて「戦争とは?」「平和とは?」

ということを考えさせられる企画がメディアを通じて行われています。

同時に国会では安保法案についての審議は大揺れであり、法案が

通ることでまた悲惨な戦争に巻き込まれるのではないかという

国民の疑心が大きなうねりとなっています。憲法の解釈上で行われて

いる専守防衛の考え方は正しいと思いますが、約70年前にはなかった

大陸間弾道ミサイルなどの現代の兵器の前ではやられたら国が一瞬で

滅んでしまうほどの威力の中で、自分自身が自ら守ることの必要性は

あるのでしょう。難しい問題だとは思いますが、

「平和」はタダであるという考え方だけは間違った解釈だと

思います。



戦時中に日本国民が払った大きな犠牲の上で成り立っている現代の

平和は金銭的価値ではなかなか支払うことは出来ないのでないのでは

ないでしょうか。それでもその苦労に報いる為に支払った退役軍人に

対する恩給の仕組みはやがて公的な年金制度になり、今はその制度すら

疲労しています。戦後70年とは戦後間もなくの頃の時代背景とは全く

変わっているのに憲法を含めてその頃の制度が何も変わらないことに

諸問題があるのです。




戦時中のお葬式は遺族の方にとって大変心残りのものでした。

極端に物資が不足する中、大切な方を失っても満足に弔いが出来な

かったのです。お棺すら手に入らなくて、ご遺体に油を直接撒いて

野焼きで火葬したり、仏壇はミカン箱のようなダンボールで代用

したりという現実でした。それでもまだ供養をされた方はまだ良い

ほうで、身元不明者や路上で野垂れ死なども多数いた現状です。

戦後、満足に供養できなかったという多くの国民の不満が

「祭壇は立派に」「町内・友人・知人多く参列して貰う」

「お棺は立派に」「食事は豪華に」「お寺様をたくさん呼ぶ」


というニーズが生まれ、戦後復興・高度成長期に葬儀は派手になって

いったのでした。

その流れの中で昭和のバブル経済で日本のお葬式の文化はピークに

達し、日本各地でお金をかけた葬儀が行われていました。

現代の大手と呼ばれる葬儀社は少なからずこの時代の恩恵を受け、

その原資で勢力を拡大していったのも事実なのです。

言ってみれば、戦後の葬儀文化の隆盛は戦時中の供養の出来なかった

ことの不満の裏返しなのです。



戦争を知らない世代ですら、還暦を迎え、70歳近くになった現代の

喪主たちは当然、戦中の供養に対する不満など抱いている訳では

ありません。不満がない人にとって葬儀を必要以上に華美にする

必要性は全く感じないのでしょう。結果的に現代の葬儀のニーズが

「質素に」「集団ではなく個で」という流れになっているのは一言で

言えば現代の世情なのです。




これまでのお葬式の流れですら、戦争とは無関係ではありません

でした。平和の時代が続くと供養すら質素に、そして供養出来ないと

いうことが考えられなくなるのです。但し、東日本大震災の時に

多くの被災者が満足に供養できなかった不満は戦時中に多くの方が

感じた不満と共通するものがあったのです。

結果的に被災地では供養やその後の葬儀に対しては戦後の日本と同じ

ようなニーズが生まれているのです。








  

Posted by フューネ三浦 at 08:30 │役立つ雑でない雑学

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